スティーブ・ジョブズと対照的な人物として、ドストエフスキーの『罪と罰』に出てくるマルメラードフという人物を取り上げてみましょう。ラスコーリニコフが殺人を告白する相手である娼婦ソーニャの父親ですね。元は地方の下級官吏ですが、酒で職を失い、いまは娘に売春をさせて、その金で酒を飲んでいるという、どうしようもないやつです。酒場で酒を飲んでは、自分がいかにダメな人間かということを延々と語る。ちょっと自虐的なところがあるんですね。自分の欠点を人前にさらけ出すしか能のない人間と言ってもいい。
この二人、スティーブ・ジョブズとマルメラードフを人間として等価とみなすのが文学だと思います。少なくともドストエフスキーはそう考えました。いったい何が等価なのか? 時価総額世界一の会社を作った人間と、娘に売春をさせて、その金で酒を飲んでいる男がどうして同じなのか? 苦悩の大きさが等価ということなのだと思います。これはドストエフスキーが発見した「価値」です。それまで誰も一人ひとりの人間が抱えている苦悩を「価値」とみなすことなどなかったのです。しかしドストエフスキーはそれを一つの文学的価値として創発した。
ぼくが文学に惹かれるのはこういうところです。誰もが文学という装置を使って自分だけの価値を発見・発明できるんです。貨幣という価値があります。いまのところ世界中で通じる唯一の価値ということになっている。数学と同じです。1+1=2は民族、宗派、国籍、性別などの違いを超えて通じる。貨幣も数学も便利だから使っているけれど、お仕着せのものだから面白くはない。誰かがぼくの本の値段を一冊1500円とかきめて、それが流通していくんですね。本を書くのは面白いけど、そのあとは自分とは関係ないから、あまり面白くありません。
やっぱり自分で世界をつくりたいわけです。1+1=3という世界があってもいいじゃないかとか……まあ、言いがかりみたいなものですが、ドストエフスキーだって人類を向こうにまわして言いがかりをつけているようなもんですよね。マルメラードフみたいなやつが、どうして時価総額世界一の会社を作った人間と同じなんだ? 常識的な人からすれば与太を飛ばしているとしか言いようがない。
だとしたら、ドストエフスキーは与太を文学にしてしまったと言ってもいいかもしれない。根拠のないところに根拠をつくってしまった。ぼくなどは『罪と罰』を読むと、やっぱり作者の与太に説得されます。マルメラードフというつまらない男の「卑小な偉大さ」みたいなことを考えてしまう。文学の力だと思います。