小説家片山恭一の文章の書き方

11 やっぱり読者は必要だ

 そりゃそうですよね。誰かに読んでもらわないと張り合いがありません。自分のために書いているといっても、その自分が問題だと思うんです。自分は自分だけで完結しないものだ、というのがぼくの考えです。「自分のため」ということの意味は、「自分を誰かに届けるため」ということなんじゃないかな。

 誰かに届いてほしいわけです。どんなにつまらない自分でも。そういう自分を受け取ってくれる人がどこかにいるんじゃないか。自分を受け取ってくれる「誰か」を探し求めて、言葉は旅に出ます。やっぱり言葉ですよ、自分と誰かをつなぐものは。他に思いつきません。

 言葉というのは、とりあえず不特定多数に向かって発することができるんですね。しかも情報という側面をもっていますから、0か1かの二進法で、ほとんど輸送コストなしてどこまでも拡散していく。こんなに手軽なコミュニケーション手段って、他にありません。

 手軽だけれど、しかし深いものを届けることができる。ゲーテの『ウェルテル』(1774年)がヨーロッパ中でベストセラーになったとき、主人公のウェルテルに共感して自殺する若者がたくさん現れたそうです。マスメディアの報道に影響されて自殺者が増えることを、いまでも「ウェルテル効果」なんて呼ぶようですよ。

 まあ、あまりいい例とは言えないけれど、そのくらいの深度をもつわけですよね、言葉っていうのは。だから大切に扱わないといけません。受け取ってくれる人のことを考えて書く。これは「いい文章を書く」ための心得の一つとして、頭に入れておいていいのではないでしょうか。

 ぼくが書いているこの文章もそうです。誰かが読んでくれているってことが、大きな励みになっている。どこでどんな人が読んでくれているのかわからないけどね。読者の声が返ってくることって、ほとんどありませんから。「いいね」とか「シェアさせてもらいます」とか、せいぜいそのくらいです。

 でも誰かが読んでくれている。そのなかにはぼくが自分を届けたいと思っている人がいるかもしれない。とくに小説の場合は、ただ一人の読者に向けて書いているようなところがあります。実体としての実在の誰かではありません。ぼくのなかの理想の読者といいますかね。まあ、文学の神さまみたいなものです。

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