小説家片山恭一の文章の書き方

6 まじめに文章を書きたい人のために

 だがしかし、この文章を読んでくれている人の多くは、もう少し本格的にというか、まじめに真剣に「書く」ことと向かい合いたい人たちだろうと思います。そうすると話が違ってきます。「今日のお昼はラーメン。ギョーザも追加しちゃいました。ちょっとお腹の脂肪が心配」というような文章には、けっして甘んじていたくないという人がほとんどでしょうから。

 つまり少しだけ「表現」という要素が入ってくるわけです。「表現」は「自分」と結び付いています。自分らしい文章、自分にしか書けないような文章、あるいは自分を誰かに届けるための文章、できれば誰かを元気づけ、よろこんでもらえるような文章。

 わかります。ぼくだってそういう文章を書きたいと思っているんですから。小説にしても、他のものにしても。言葉によって誰かに何かを届けたいわけです。「今日のお昼はラーメン」以上のものをね。でも、それはとても難しい。お金のほうが手っ取り早い。現にお金でたいていのものは届くようになっている。しかしお金では届かないものがある。

 届かないものの一つが「まごころ」でしょう。いや、まごころだって、一部はお金で届くかもしれません。でも届かないまごころもある。だからぼくたちはお金のかわりにお花を贈ったり、プレゼントをしたりするのでしょう。女の人にプロポーズするときには宝石を贈ったりしますよね。この場合、お金じゃちょっとねえ。「あたしのこと、なんだと思ってるの!」ということで話はなかったことになりかねない。

 まあ、お花やプレゼントや宝石もかたちを変えたお金ではあるんだけど、「かたちを変えた」ってところに、その人の表現が少し入っているわけです。だからそのまんまお金よりは、少しまごころ度が高いと言えます。この場合、まごころ度の中身は「選択」ってことです。お金って選択する必要がないでしょう? もらった人のほうが何に使うか選択するわけで、お金をあげる人が選択するわけじゃない。

 経済学でお金のことを交換手段といいますよね。つまり何かと交換するための道具、それがお金なんだと。あくまで手段であり道具ですから、それ自体は何ものでもない。大昔は貝殻だったり石だったり、それから鋳造貨幣っていうんですかね、金や銀、銅だったりしたわけですが、いまや主流は紙幣、紙切れですから新聞紙と同じです。さらに仮想通貨やデジタル通貨になると、物でさえなくなる。0と1のデータ、情報ですよね。

 お金の本質はそういうものです。0と1のデータをもらってもうれしくもなんともありません。いや、なんとでも交換できるわけだからありがたいことだけれど、まごころを表現する手段としてはちょっとドライです。やっぱりビットよりはアトム、物のほうがまごころの表現手段としてはふさわしい。だから昔からぼくたちは大切な人にお花やプレゼントや、「安物だけどきみには似合うかなと思って」などとエクスキューズしながら模造のジュエリーとか贈ってきたわけです。

 その手の贈り物のなかで最高のものが、ぼくは言葉だと思っているんです。言葉を贈ること、これにまさるまごころの表現はないと思います。

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