小説家片山恭一の文章の書き方

13 ところで何を届けるの?

 前にも言ったように、ぼくは近くの大学で学生さんたちに文学を教えています。といっても教えるという大袈裟なものじゃなくて、文学を題材にしていろんな話をするわけです。一応「文芸創作」って名前が付いていましてね、「創作」っていうぐらいだから、小説を書いてもらいます。

 今学期は最初に幾つかの質問に答えてもらうことにしました。簡単なたわいのない質問です。最近食べておいしかったもの。うれしかったこと。悲しかったこと。辛かったこと。苦しかったこと。頭にきたこと。感動したこと。恥ずかしかったこと。発見したこと。手に入れたもの。失ったもの。悩んでいること。心配なこと……そんな感じ。

 質問にはたいした意味はなくて、ただ思いつきを並べただけですけど。自分の意見がある、自分の感じ方がある、ってことが文学の基本だと思うんです。他人の意見や他人の感覚では文学になりません。とてもプライベートな、密やかな自分を誰かに届けたい。それが文章を書くことの原点にある情動だと思います。

 最近はSNSなどに自分が撮った写真などを載せている人が多いですよね。これも自分の感じ方です。美しいと感じたり、いいなと感じたりしたことを、誰かと共有し、共感してもらいたい。そういうかたちで承認を求めているんだと思います。

 先ほどの質問事項に戻ると、学生さんたちの回答を眺めていて気が付いたことがあります。たとえばおいしかったもの、塩羊羹、マルイの入口付近のチーズケーキ、抹茶わらび餅、めんつゆで割った蕎麦湯など、「なんじゃそれ?」というものも含めて、こういう具体的、即物的な答えって面白いんですね。読み手の興味をそそります。「トマト」って書いている子がいたけど、「それって、特別なトマトなの?」とか、思わず追加質問したくなっちゃいます。

 写真や動画も、具体的で即物的です。だから巧い下手はともかく、それなりに見る人の興味を惹くのだと思います。塩羊羹やチーズケーキや抹茶わらび餅なども、写真や動画と同じように具体的なものを即物的に提示している。回答者の主観は入っていない。むしろこっちが、「そのチーズケーキはどんなふうにおいしかったの?」とたずねたくなります。

 言葉の場合、とかく主観が入ってしまいます。そして主観というのは、言葉で表現するとあまり面白くないものなんですね。うれしかったこと⇒久しぶりにイベントに行ったこと、資格試験に合格したこと、友だちに誕生日を祝ってもらったこと……なんか読んでいてもときめきませんよね。悲しかったこと⇒練習で怒られたこと、提出したレポートが「ありきたり」と言われたこと。頭にきたこと⇒母親のわけのわからない難癖、喫煙者が路上で平気で煙草を吸っていること。いずれも「はい、そうですか」で終わってしまいそうです。

 このあたりが言葉で何かを伝えることの難しいところです。つまり言葉には、伝えたいことを伝えようとするほど伝わらなくなるところがあるんです。塩羊羹がおいしかったということよりも、本当はうれしかったり悲しかったり頭にきたりしたことを伝えたいはずなんです。そして共感してもらいたい。喜んだり悲しんだり怒ったりしている自分を承認してもらいたい。でも、それを言葉でやるのはとても難しいんですね。

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