小説家片山恭一の文章の書き方

3 最初をどう書くか

 やっぱり冒頭から書くわけです。出だし。小説の場合は、とくにこれが大切です。とりあえずここをうまくクリアしなくちゃね。最初がビシッときまらないことには、あとがつづかない。書くほうとしても作品世界に入っていくのに気分が乗らない。

 また読者にとっても書き出しは大事です。男女の出会いでも第一印象って重要ですよね。前回少し触れたスティーブ・ジョブズが製品を入れる箱のデザインに病的なくらいこだわったと言われるのも、最初の印象を大切にしたからだと思います。小説の冒頭は作品を読んでくれる人への挨拶みたいなもので、「わたしはこんなものです」って知らしめるわけだから、ここはしっかり気合を入れて書きたいところです。

 すぐれた作品の冒頭っていうのは、だいたいビシッときまっているものです。最初の一行に力がある。ちょっと例をあげてみましょうか。有名なやつから。【長いこと私は早めに寝むことにしていた。】マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』(吉川一義訳)ですね。【ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変わっているのを発見した。】こちらはフランツ・カフカの『変身』(高橋義孝訳)です。【私の名はイシュメイルとしておこう。】ハーマン・メルヴィルの『白鯨』(阿部知二訳)。

 どうです? どれも最初の一行から引き込まれますよね。みなさんよくご存じの村上春樹さん、彼なんかも巧いです。たとえば『1973年のピンボール』の出だし。【見知らぬ土地の話を聞くのが病的に好きだった。】とても親密な語り口ですが「病的に」っていうのがミソですね。ここでぐっと読者の気持ちをとらえているわけです。こういうところは、とくに初期の村上さんは非常に冴えていました。

 小説についていうと、作品の冒頭っていうのはかなり重要な情報を読者に与えます。まず物語の語り手がどういう人物なのかわかります。プルーストは主人公の「私」が語り手ですね。繊細な、ちょっと神経質な人物であることを予想させます。その「私」が自分の見聞きしたことを物語っていくんだろうなって、なんとなく読者に思わせます。それが全七編、分厚い文庫本で十冊以上の膨大な作品につながっていくんです。

 カフカの小説はザムザという三人称の主人公になっています。語り手はナレーションに徹して物語のなかには登場しません。しかもこの語り手、とんでもないことを言いはじめます。一人の人間が目を覚ますと巨大な虫に変わっていた。「いったいどういう話だ?」と思いますよね。「冗談なのか?」と思った読者もいたかもしれません。この荒唐無稽な冒頭から、作者はリアルな家族の葛藤の場へと読者を連れて行きます。

 同じ一人称の語り手でも、メルヴィルの場合はちょっと勿体ぶっていますよね。「私の名はイシュメイルとしておこう」なんて。まあ原文は「Call me Ishmael.」ともっとシンプルなんですけどね。それにしても「イシュメイルと呼んでもらおう」だから、やっぱり勿体ぶっているかな。読んでいくとわかるけど、この作品はちょっと叙事詩なつくりになっているんですね。すると「Call me Ishmael.」という神話のはじまりみたいな冒頭は、いかにもこの作品にふさわしいことがわかります。

 こんなふうに小説では、最初の一行が作品全体を規定してしまうところがあります。だから読者からするとはじまりだけど、書き手にとっては作品全体の見通しに立った上での冒頭なんですね。

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