でも待てよ、お金はデータだ、情報だと言っているけど、言葉だって情報じゃないの? うん、たしかにそうです。少なくとも物じゃありませんよね。まあ印刷して本にすれば物だけど、それは屁理屈というもの。言葉って情報なのか? データの一種なのか?
たしかに言葉のなかには情報やデータとしてやり取りされるものもあります。新聞などのメディアで使われている言葉は紛れもなく情報です。あるいは診断書や履歴書も情報、つまり個人情報ですよね。情報だからデータとして扱われる。でもトルストイの『戦争と平和』を情報やデータとして読む人はいません。
二つのタイプの言葉があるってことだと思います。情報やデータとして扱われる言葉と、まごころの表現にも使える言葉。情報・データ系の言葉は伝達する内容があらかじめきまっています。パレスチナの現状とか昨日のプロ野球の結果とか。言葉の使い方にしても、所定の内容をできるだけ正確にわかりやすく伝えるわけだから、あまり選択の余地はありません。人間よりもAIのアルゴリズムに書かせたほうが、主観が入らなくていいかもしれない。でもそれはまごころを伝える言葉ではありません。
一方、「わしはおまえが好きや」ということを伝える場合、選択肢は無数に無限にあります。単刀直入に「好き」と言うのか、それとも「今度一緒にご飯でも食べに行きませんか」などと婉曲的に伝えるのか。夏目漱石が「アイ・ラブ・ユー」を「月がきれいだね」くらいに訳しておけと言ったのは有名な話ですが、これも「ほら、月があんなにきれいだよ」とか「今夜は月がやけに明るいね」とか「月の光にきみの頬が輝いている」とか、考えだしたらきりがない。
つまり選択です。この時点で、言葉は贈り物を選ぶのと同じ意味をもちはじめるのです。心を込めて好きな人への贈り物を選ぶように、ぼくたちはまごころを表現するために心づくしの言葉を選ぶ。物を選ぶ場合には、一応限りがありますが、言葉にはない。しかもタダです。工夫次第で「わしはおまえが好きや」は無数で無限の言い方に変換できる。この際限のなさが、既存のものである言葉を、その人だけのものにしていくのです。
今回のまとめです。言葉はコミュニケーションの手段としては通貨と同じものですが、同時に、その人だけのものという側面をもっています。この両面を行ったり来たりすることが、「文学」のいちばん本質的なところではないかと思います。