小説家片山恭一の文章の書き方

45 人を元気づける言葉

 では「人を元気づける言葉」とは、どのようなものでしょう? 現在の日本の社会を考えてみましょう。ぼくたちのまわりでいちばん元気がないのは、たとえば末期の癌を宣告された人たちです。彼らに届く言葉はあるでしょうか? 難しい問題です。しかし、この難しい問題をクリアしないかぎり、文学は本懐を遂げないとぼくは思っています。

 医者から「あなたは癌です。余命一年です」と言われる。その瞬間から、どんな言葉もその人には届かなくなります。唯一届くのは治療の言葉、さらに言えば主治医の言葉だけです。これだって本当に届いているのかどうかわからない。ただ他に術がないからすがりついているだけかもしれない。これほどまでにぼくたちの言葉は無力です。「あなたは癌です」という医者の一言にまさる言葉を、ぼくも含めて、この国で文学にたずさわる者の誰一人としてつくることができていません。

 病気や治療の言葉だけに覆いつくされた生はあまりにも苦しいと思います。孤独で心細いはずです。だから余計に医学を頼ってしまうのかもしれません。言葉が届かないことは、何よりもぼくたちを無力にします。もちろん主治医の言葉も大切でしょうが、それ以外にもいろんな言葉が届けばいいと思います。そうすれば同じ闘病生活でもずいぶん楽になるはずです。

 具体的に考えてみましょう。死を受け入れることができずに苦しんでいる人がいるとします。彼や彼女にたいして、ぼくたちはどんな言葉を届けることができるでしょう? どんな言葉なら届くでしょうか? そもそもそうした状況で届く言葉はあるのでしょうか? キリスト教を信仰している人には『聖書』の言葉は届くかもしれません。日本人の場合であれば、禅語や通俗化した親鸞の言葉などはいくらか届いているのでしょうか。いずれも長い年月を生き延びてきた言葉の力だろうと思います。しかし本当に必要なのは、いまの時代を生きているぼくたちが発しうる言葉です。

 自分の大切な人が死を迎えようとしている。それは自分の連れ合いかもしれない。子や孫かもしれない。いずれにしても大切な人です。その人に届く言葉は既成の宗教の言葉ではないと思います。彼や彼女のことを誰よりも大切に思っている一人ひとりの、心づくしの、手作りの言葉であるはずです。それはどういう言葉でしょう? おそらく言葉を発する者に本当に届く言葉だと思います。大切な人が苦しんでいる。大切な人だから、見ている自分も苦しい。そんな自分に届く言葉があれば、その言葉は相手にも届くような気がします。彼(または彼女)の死を受け止め、受け入れることができる言葉を、自分にたいしてつくることができれば、それは死んでいく彼や彼女にも届くのではないでしょうか。

 逆の場合を考えてみます。ぼくが末期の癌か何かで死を迎えようとしている。それを心の底から悲しんでくれる人がいるとします。あとに遺される相手の悲しみや苦しみがやわらぐ言葉を、ぼくがその人のためにつくることができれば、その言葉はぼくにも届いていると思います。こんなふうに考えていくと、言葉の本質は「ふたり」であると思えてなりません。「ふたり」という場所で紡がれる言葉が、本当に苦しいときに、ぼくたちを窮地から救ってくれるのではないでしょうか。

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