小説家片山恭一の文章の書き方

26 スティーブ・ジョブズの最後の言葉

 先ごろスティーブ・ジョブズについての本を出したので、オンラインの講演や講義でジョブズについて話す機会が何回かありました。文学的に見ると、パブリックな部分でのジョブズの人生は、人間の生き方としてはあまり価値のないものだと思います。アップルという時価総額で世界一の会社を作って、巨額の富と名声を得た、それだけでは文学の素材にはなりません。バルザックやドストエフスキーなら、彼について書こうなんて思わないでしょう。ぼくはジョブズのことを「文学」として書こうとしたわけですが、それは彼がときおり見せる「弱さ」に惹かれたからです。そこに焦点を合わせれば文学になると思ったんです。

 ジョブズの最後の言葉とされるものがネット上に出まわっています。自分はビジネスの世界で頂点にたったけれど、それは迫りくる死の前では色褪せ、無意味なものになっている。この世で自分が得た富や名声はつまらないものだ。愛によってもたらされる思い出だけが、いまの自分を支えてくれている……といった内容です。本物なのかフェイクなのかわかりません。本物かフェイクかを超えて真実を感じさせます。それは文学としての真実と言ってもいいと思います。

 ぼくなんかも厄介な病気になったり、病院での検査結果が悪くて気弱になったりしているとき、自分がやってきた仕事のことを考えたりはしない気がします。子どもたちが小さかったころのこととか、家族で旅行に行ったときのこととか、弱気な心でそんなことを考えてしまいそうです。ぼくは長く小説を書いてきたわけですが、死に臨んで、いい小説が書けたとか、本がたくさん売れたとか、そういうことはあまり考えない気がします。やはりジョブズと同じように、愛によってもたらされる思い出みたいなもので自分を支えるのではないでしょうか。

 だとしたら人が生きることのなかで、いちばん価値のあるものは何か? 時価総額世界一の会社を作ったことなどではないと、ジョブズ自身が言っています。フェイクかもしれませんが、本物かフェイクかを超えた真実として彼はそう言っている。ぼくたちは自分で自分を幸せにするようにはできていないということでしょう。だから自力で成し遂げたことは、迫りくる死の前で色褪せ、無意味なものになっていく。

 本当に大切なものは、いつも自分の手前にある。自分が何者であるかとか、何を成し遂げたかとか、そういう自分の手前にある。目立たない、些細なものとしてある。でも、その大切さに気付くためには、やはり精いっぱい何かをやってみる必要があるのかもしれない。ジョブズは一人の人間としてやれるかぎりのことをやったと言えるでしょう。彼が成し遂げたことは巨大です。それだけに死に臨んで感じた虚しさも巨大だったのかもしれません。その巨大な虚しさに見合って、自分にとって本当に大切なものに、誰よりも深く気づいたのではないでしょうか。

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