小説家片山恭一の文章の書き方

24 ぼくたちは言葉だけで勝負する

 前回は「本当に書きたい!」と思うテーマを見つけることが大切だというお話をしました。言うまでもなく、小説は言葉です。言葉だけです。はじめから終わりまで言葉しかありません。映像や音などに頼ることができない。文句を言ってもしょうがない。小説とはそういうものなのです。

 このため言葉の強度が重要になります。言葉に強度をもたらすものは、言葉を支える情念です。「本当に書きたい!」というテーマは、その情念に結び付いてきます。まあ、「古池や蛙飛びこむ水の音」が芭蕉の情念に結び付いているかどうかは微妙なところだけれど、少なくとも作者の意気込みは感じられるんじゃないでしょうか。

 ぼくたちが普通蛙から連想するのは、「ケロケロ」というちょっと間抜けな鳴き声だと思います。鳴き声によって個性が際立つ生き物なんですね。ところが芭蕉の句は「飛び込む」という蛙の動きをとらえています。これは「発見」だと思うんです。本人もそう思ったんじゃないかな。その「やったぜ!」という感じが、17音の言葉に強度をもたらしています。

 芭蕉の場合、こうしたささやかな「やったぜ!」から出来上がっている句が多いんですね。「閑さや岩にしみいる蝉の声」では、「しみいる」という言葉を思いついたことの「やったぜ!」でしょう。「荒海や佐渡によこたふ天河」は「よこたふ」でしょうか。そうした発見に伴う気持ちの高揚が句の強度を支えている。

 ぼくたちが小説で恋愛を書こうとするのは、誰にとってもそれが大小の「やったぜ!」だからだと思います。「出会っちゃった」という感動。そこにはかならず発見があります。彼を、彼女を発見したことの喜び、気持ちの高揚、まさに「やったぜ!」だと思うんです。そしてぼくたちが彼や彼女を発見することは、芭蕉が蛙の動きに着目することと同じなんです。「しみいる」や「よこたふ」の発見と同じなんです。

 新しい星や新しい生物を発見するというのは、そう簡単にできることではありません。しかし彼や彼女を発見することは誰もが日常的にやっていることです。「おいしい」や「美しい」の発見もそうです。たった一杯の水が、ある状況ではこの上なくおいしい。いつも何気なく見ていた道端の小さな花が、ある気分のときには限りなく可憐に感じられる。そうした小さな発見が、文学の素になっていくのだと思います。

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