小説家片山恭一の文章の書き方

21 スペシャルなものを書きたい

 やっぱりスペシャルなものを書きたいわけですよ。みんなと同じものを書いても面白くない。どうせなら自分だけのオリジナルなもの、独創性に満ちたものを書きたい。よくわかります。ぼくもできればそういうものを書きたい。

 ぼくが学生時代から読んできた古典や名作と言われるものも、みんな驚くべき独創性に満ちています。たとえばカフカの『変身』、なんの変哲もないセールスマンがある朝目を覚ますと虫になっていた。なんという不条理、なんというオリジナリティ! いったい過去に誰がこんなけったいな小説を書こうとしたでしょう。しかも主人公のグレーゴルの身に起こったことは、カフカが亡くなってまもなく多くのユダヤ人の身に起こったことでした。これほど預言的な小説があったでしょうか? 一つくらいあったかもしれないけれど、いまは気にせずに先に進みましょう。

 カミュの『異邦人』、つまらぬ理由でアラブ人を殺してしまった男が裁判にかけられ、最初は本人も弁護士も裁判の行方を楽観していたのに、いざ裁判がはじまってみると裁判官や陪審員の心証を悪くするような事実がつぎつぎに出てきて、とうとう主人公に死刑判決が下される。母親の死に顔を見ようとしなかったこと、通夜で居眠りをしたこと、タバコを吸ったこと、喪中だというのにガールフレンドと泳ぎに行ったことなど、最初は平凡でたいして意味のない些細な出来事と思われていたことが、パズルが組み合わさるようにして死刑の理由になっていくんです。こわ~っ。

 ヘミングウェイの『老人と海』。84日間、一匹も獲物のなかった老人の針に大物がかかる。三日三晩の格闘の末、老人はようやく巨大なカジキマグロを仕留めるが、獲物が大きすぎてボートに引き揚げることができない。舟に縛り付けて曳航していくうちにサメがやって来る。何度かの襲撃によって魚は頭と骨だけになってしまう。なんという徒労! こんな馬鹿げた話を真面目にブンガクにしようとした作家がかつていただろうか? いたかもしれないけれど、いまは思いつきません。しかも釣った魚が大きすぎてサメに食べられちゃった、というシンプルかつバカバカしいような話が、読む者に忘れがたい感動をもたらすのです。

 どれもぼくが大学生のときに読んで大きな感銘を受けた作品です。できれば自分もこうした小説を書いてみたいと思いました。もちろんそう易々と書けるものではありません。スペシャルものが量産されたら、それはスペシャルではありません。平凡というか凡庸というかオーディナリーなものになるでしょう。どうすりゃいいんだ? ということを次回は考えてみましょう。

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