小説家片山恭一の文章の書き方

20 「好き」の起源

 宮沢賢治のオノマトペにはどこか〈性〉のニュアンスがあります。ここで〈性〉と言っているのは自分と相手、自分と対象が未分化な状態、主観にたいして客観的な対象物という、はっきり分かれた関係になっていない状態のことです。賢治が自然の事物や事象にたいして使っているオノマトペは、対象を描写したり説明したりするためのものではない気がします。少なくともそれだけではない。描写や説明をはみ出してしまうところがあるんですね。前にも書いたように、賢治と事物のあいだに主客未分化の場所があって、そこから生まれてくる音が彼のオノマトペになっているのではないか。そう考えると、納得できるところがあります。

 ぼくたちが誰かを好きになる。この「好き」っていうのも、オノマトペ的なとこがあると思うんです。中身はよくわからないんですよね、「好き」って。悲しい、苦しい、うれしいなどには理由や原因があります。なぜ悲しいのか、苦しいのか、ちゃんと説明できます。ところが「あの子が好きだ!」という場合、「あの子」は好きの理由や原因と言えるでしょうか? 仮にそうだとしても、悲しいや苦しいやうれしいほどは、「なるほど、もっともだ」と他人を納得させられないんじゃないでしょうか。場合によっては、「えっ? ああいうのがいいの?」とか、「おまえって変わってるな」とか、友情にひびが入るような発言も予想されます。

 したがって「あの子が好きだ!」は「ぎゆつくぎゆつくぎゆつくだ!」でも、「こぼんこぼんだ!」でもいいわけです。もちろん「どっどどどどうど どどうどどどうだ!」でもいい。そういうもんでしょ? 好きって。なんだかマグマみたいに熱くたぎっていて、「ぎゆつくぎゆつくぎゆつく」だったり、「こぼんこぼん」だったり、「どっどどどどうど どどうどどどう」だったりする。

 だから人の好みは十人十色なんですよね。「蓼食う虫も好き好き」ってそういうことだと思います。ついでに「痘痕(あたば)もえくぼ」も仲間に入れちゃいましょうか。こうした十色はどこから生まれてくるのか。タデが好きだったり、それほどでもなかったりするのはどうしてなのか。なぜ人によって、あばたがえくぼに見えてしまうのか。

 主観や思い込みだけじゃないと思うんです。対象を必要としますからね。しかし対象の属性だけでもない。もしそうなら十人十色は生まれません。冠位十二階みたいに序列が生まれるはずです。法や制度の場合は主観が入ると困るので、客観だけで出来上がっているわけですね。紫がいちばん偉くて、つぎが青、以下、赤、黄、白、黒という具合に序列化してある。主観や思い込みが介在する余地はありません。

 もし「好き」が冠位十二階だったら大変です。一人の女性(あるいは男性)をめぐって熾烈な戦いが繰り広げられることになる。でも幸い、ぼくたちの場合は十人十色、蓼食う虫も好き好きですから、普通の人には痘痕にしか見えないものがえくぼに見えて、「おれはおまえが好きや!」「うちのこと好いてくれるの、あんただけや♡」ということになって、地上はK1状態にならずに、不思議な一対一対応が成り立ってしまうわけです。

 「好き」って究極のオノマトペかもしれませんね。それはぼくでもあなたでもない〈性〉の場所から、「ぎゆつくぎゆつくぎゆつく」、「こぼんこぼん」、「どっどどどどうど どどうどどどう」といった具合に生まれてくる、そういうものじゃないかと思います。今日は文学とも文章を書くこととも全然関係ない話をしてしまいました。次回をお楽しみに。

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