小説家片山恭一の文章の書き方

17 梶井基次郎の檸檬と芥川龍之介の蜜柑

 前回取り上げた和歌の多くは、四季の風物を主題としたものですが、そこで取り上げられる花鳥風月や雪月花といった事物が内包している情感やイメージは、共同体的なものを志向しているように見えます。民族的と言ってもいいかもしれません。日本人なら誰でもが喚起される情感やイメージを内包したものとして、花や月が扱われているわけです。

 しかし細かく見れば、花(さくら)にしても紅葉にしても月にしても、事物に内包されているものは一人ひとり少しずつ違っているはずです。この違いにフォーカスしていくのが小説かもしれません。たとえば梶井基次郎が「檸檬」のなかで描いているレモンという果物は、あの作品のなかで新たに創造されたものと言っていいと思います。それまで誰も手にしたことも目にしたこともなかった、この世に一つだけのレモンです。

 肺を病んで始終微熱があるらしい「私」が、「えたいの知れない不吉な塊」を心に抱えて京都の寺町を徘徊している。通りかかったみすぼらしい果物屋で、彼は一つのレモンを買い求める。それを手にして歩きながら、ときどき取り出して鼻に近づけたりする。その香りも色も形も質量感も冷感も、何から何まで好ましく思える。これまでずっと探し求めていたと思えるほど、「私」にとってしっくりくるものである。心をずっと圧しつけていた「不吉な塊」が弛み、彼はつかの間の幸福さえおぼえる……。

 こんなふうに一個のレモンを描いた者は、ただ一人もいなかったはずです。それはこの作者の発見であり、創造と言えるものです。果物つながりでいうと、芥川龍之介の「蜜柑」などもそうですね。とてもいい小説なのでちょっと読んでみましょう。

 あるくもった冬の日暮れ、「私」は横須賀発上りの二等客車に隅に腰を下ろして、ぼんやり発車を待っている。そこに十三四の娘が慌ただしく乗り込んでくる。いかにも田舎者らしい垢抜けしない身なりの娘は、大きな風呂敷包みを抱えている。うつらうつらしてふと目が覚めると、いつの間にか娘が隣の座席にやって来てしきりに窓を開けようとしている汽車がトンネルに入ったのと同時に窓が開いたものだから、石炭を焚く煙が客車のなかになだれ込んでくる。もともと咽喉の弱い「私」は激しく咳き込んでしまう。娘をしかりつけようと思っているあいだにも、汽車はトンネルを出て町はずれの踏切にさしかかっている。そこに三人のみすぼらしい男の子が立っている。汽車がやって来ると一斉に歓声を上げて手を振る。それに応えて、娘は弟たちに蜜柑を投げる。「忽ち心を躍らすばかりの暖かな日の色に染まっている蜜柑が凡そ五つ六つ、汽車を見送った子 供もたちの上へぱらぱらと空から 降ってきた。」

 なんの変哲もない蜜柑から、これほど切なく感動的な情 景が生まれたのです。梶井基次郎といい芥川龍之介といい、ときどき小説家は魔法使いみたいなことをするのですね。

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