小説家片山恭一の文章の書き方

16 和歌に寄り道してみる

 小説はさまざまな事物(花や子どもや猫など)から成り立っています。崇高な観念や思想を主題とするものではありません。背後にそういうものがあっても、直接的には描かない。もちろん例外はありますが、多くの小説で中心的に描かれるのはあくまで諸事物です。それが「文芸」と呼ばれるものの特徴かもしれません。

 日本の代表的な文芸である和歌などもそうですよね。ほとんど花鳥風月や雪月花に代表される四季の風物を主題としている。まあ、あとは恋ですかねえ。とくに『古今和歌集』や『新古今和歌集』といった、平安から鎌倉にかけての勅撰歌集では、こうした傾向が強いように見受けられます

 見わたせば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ

 『新古今和歌集』の撰者の一人でもある藤原定家の有名な歌ですね。花(さくら)や紅葉は直接的には詠われていませんが、春を代表するさくらと秋を代表する紅葉という二つの事物を提示し、その欠如(なかりけり)を示すことによって秋の夕暮れのわびしさ、寂しさを際立たせている。これを当時の人々は「美」と感受したのでしょう。寂寥の美ですね。唯一実在のものとして詠われている「苫屋」も、寂寥感を喚起する事物として効果的に働いています。

 この歌に詠まれたような「寂寥の美」は、現在に至るまで多くの日本人に共感され共有されてきたものです。それは「花(さくら)」「紅葉」「苫屋」といった事物の力によるものだと思います。「秋の夕暮れのわびしさ、寂しさ」という抽象的な言い方では、共感は生まれないかもしれません。

 ひさかたの光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ

 『古今和歌集』を代表する歌人・紀友則の春の秀歌です。これなども歌の調べを耳にするだけで、多くの人が理屈ではなく直観的に、日本の春のなんとも言えない空気感というか、うまく言葉にできない雰囲気をかなり正確に感受すると思います。そういう意味で和歌は、ぼくたちにとって共同体的なものと言えるかもしれません。31文字の短い詩形によって、日本民族のなかに同じような情感、イメージ、雰囲気をじつに見事に喚起する。

 友則の歌で使われている「ひさかたの」は光にかかる枕詞です。さすがに枕詞の共同性は現在では失われていますが、当時の人々(天皇を中心とした上層階級の人たち)には強いイメージを喚起したはずです。「ひさかたの」は光だけではなく、日(太陽)、月、天などにもかかります。これらの事物が「ひさかたの」という枕詞に導かれて歌い出されると、人々の脳裏には鮮明なイメージが浮かんだんじゃないでしょうか。

 こんなふうに日本の「うた」は、事物に内包されている最大公約数的なものを引き出してくる非常にすぐれた機能をもっているようです。

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