小説家片山恭一の文章の書き方

15 個性ってなんだろう?

 写真でも、ただ巧いだけの写真って面白くないですよね。巧い写真なら、それこそスマホに内蔵されたカメラなんかはそつなく巧い。でも、それだけでは面白みがない。だって誰が撮っても一緒なんだもん。やっぱりその人のまなざし、感性みたいなものが写ってないと、面白くないです。

 ところがスマホで撮った写真でも、何人かのものを並べて見くらべてみると、なんとなく違う感じがするんじゃないでしょうか。もちろん写っているものが違う。被写体というのは情報ですね。では情報を同じものにしましょう。たとえば同じ花を撮ってもらう。同じモデルを撮ってもらう。一匹の猫を撮ってもらう。絵画なら明らかに一人ひとりの絵は違うはずです。デッサンの段階から違います。スマホで撮った写真でも、やっぱり違うと思うんです。

 実際に撮っているのはスマホに内蔵されたコンピュータかもしれないのに、同じ被写体を撮った写真に何かしらの違いが出てくる。何十枚か並べてみると、共通したトーンがあらわれてくるかもしれません。花やモデルの場合ならどの距離からどういったアングルで撮るか。まして動いている子どもや猫なら、どの瞬間のどんな表情をとらえるかと、無数の違いが出てきます。もちろん技量の問題もあるけど、それ以上にその人の感性みたいなものが関与してくるのではないでしょうか。

 これを「個性」と言ってもいいように思います。個性とはなんでしょう? それは世界の味わい方だと思います。二人の人間がいたら、彼らは違った仕方で「花」や「子ども」や「猫」を味わっているはずです。この違いは性(ジェンダー)によるものかもしれません。年齢や職業や知識によっても違ってくるでしょう。花が好きで自分でも育てたり花瓶に活けたりしている人と、全然興味がない人では、一輪のバラの花の味わい方はまるっきり違ってくるでしょう。子どもや猫も同じです。

 つまり花でも子どもでも猫でも、それらの事物に内包されているものが一人ひとり違うのです。「違う」という前提に立つのが文学です。一方、自然科学などは「違わない」という前提に立っていますよね。花は花で猫は猫である。そういう同一性の上に成り立つ客観的現実を扱うのが自然科学です。小説のなかには客観的なものなど一つもありません。花や子どもや猫といった世界の断片を、すべて主観的に扱います。だから面白いんだと思います。一見つまらない世界の断片のなかに、じつは一人ひとりの主観や感覚が内包されていて、それが言葉を介して個性としてあらわれてくるのですからね。

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