言葉は本来、二人で味わうものです。一人だけの言葉ってものはありません。ここがお金とまったく違うところです。お金は自分一人でも使うことができますが、言葉はかならず贈る相手がいります。ひとりごとだって、目には見えないけれど、誰かそばで聞いている人を想定してつぶやかれるのです。そういうものです。
和歌などが典型的です。本来は贈る人と贈られた人が二人で味わったものなんです。「和する」って仲良くするとか親しむって意味でしょう。だから「和歌」っていうんです。わかったか?
『源氏物語』の登場人物たちもさかんに歌のやり取りをしています。「紅葉賀」という帖では、18歳か19歳の光源氏が頭中将と二人で「青海波(せいがいは)」という雅楽を舞うシーンがあります。それを身重の藤壺女御も見ている。藤壺というのは光源氏の父である桐壷帝の奥さんですが、光源氏は彼女に思慕して不義の子までつくってしまった。
そういう相手に源氏は歌を贈ります。「昨日のわたしの舞い、いかがご覧になりましたか。あなたへの切ない想いに心乱れながら舞ったのでしたが。」これにたいして珍しく藤壺は返歌をしています。
から人の袖ふることは遠けれど たちゐにつけてあはれとは見き
「しみじみ感慨深く拝見しました」というくらいの意味でしょうか。さっぱりしていてい素っ気なくも見えますが、万感の思いがこもっていたはずです。彼女(藤壺)にしてみれば光源氏への複雑な感情が渦巻いて、とても無心に見られなかった、というのが本音でしょう。そのことを悲しんでいるようにも読めます。一方、返事をもらった光源氏は大喜びです。尊い法華経のように押し戴き、いつまでも見入っているといったというふうに作者の紫式部は書いています。こんな具合に藤壺と源氏が二人で一つの歌を味わっているわけです。
もう一つ『源氏物語』の歌を見てみましょう。光源氏の正妻である葵の上が亡くなったあと、源氏が亡き妻を偲んで詠んだ歌です。
君なくて塵積りぬるとこなつの 露うち払ひいく夜寝ぬらむ
あなたが亡くなってから、塵の積もってしまった床で涙を拭いながら、寂しい一人寝を幾夜重ねたことだろうか。この歌などは亡くなった葵の上と、残された光源氏が二人で味わっているみたいです。こんなふうに言葉は、生死を超えて二人で味わうこともできるものです。
一つの歌を介して、生きている源氏が亡くなった葵の上にたどり着く。あるいは逆に、亡くなった葵の上が源氏のもとへやって来る。そうして「君なくて塵積りぬるとこなつの露うち払ひいく夜寝ぬらむ」という歌を二人で味わっているのです。言葉には、そういう不思議な機能があります。