小説家片山恭一の文章の書き方

8 うまくやれば言葉はお金よりも届く

 間違いなくそうなんです。ただし言葉の場合、届くといっても誰にでも同じようにというわけにはいきません。やはり特定の人に届くのが言葉です。同じ小説を読んでも「面白い」という人もいれば、「全然面白くない」という人もいますよね。言葉のたたずまいとしてはそれでいいのです。正解。

 もちろんなかには、たくさんの人が「面白い」と思ってベストセラーになるものもあります。でもそれは言葉が届くということとは、ちょっと違うかもしれません。話題性とか流行とか、いろんな要素が入ってきますからね。

 何百年も読みつづけられている古典文学は、ベストセラーよりは言葉が届いていると言えるかもしれません。言葉を受け取る人が、どの時代にも一定数いるわけですからね。『聖書』などは2000年近く多くの人々の心に届きつづけています。2000年前のお金は使えませんけど、2000年前の言葉はいまでも現役です。これはちょっとすごいことだと思いませんか?

 どうしてこんなことが起きるかというと、言葉は生きているからです。人から人へと受け渡されることによって生きつづける。受け渡されることで、より豊かになっていくという側面が言葉にはあります。まるで木々が生長していくみたいですよね。縄文杉などは縄文時代から生きているというんだから、樹齢4000年くらいでしょうか。さすがに4000年読みつづけられている書物はないでしょうが、それに近いものはあります。『聖書』とか『論語』とか。日本の『万葉集』や『源氏物語』だって、1000年とかそれ以上経っている。こうした書物は長い時代の無数の読者が、あたかも地中の微生物のように養分を分解して供給することで、今日まで生きつづけているのかもしれませんね。

 しかし『聖書』のような息の長い古典でも、みんなに同じように届いているわけではありません。生きる糧にしている人もいれば、ぼくみたいに知識や教養としてちょこちょこっと読む者もいます。お金の場合、100万円は誰にとっても100万円ですが、言葉の価値は受け取る人によってまったく違ってきます。「今度一緒にご飯でも食べに行きませんか」という言葉は、受け取る人によって「うれしい!」と思うかもしれませんが、相手を間違えると「ふん、誰があんたなんかと。絶対に嫌よ」という不幸な反応を引き出すことになりかねない。くれぐれも贈る相手を間違えないようにしましょう。

 でも小説の場合は、とりあえず「こんなものです」と言って差し出せばいいわけですから、とっても気が楽です。気に入らなきゃ読まなければいいわけですからね。「気に入らなかった。殺してやる!」といったことはめったに起こりません。

 でも、皆無ではありませんよ。前にフェイスブックで自分の小説を宣伝したことがあるんです。「面白いから読んで!」みたいな感じで。そしたら知らない人ですけど、実際に読んでくれたらしいんですね。で、最初の数ページで読むのをやめたと。全然面白くないから。健全な反応です。面白くないものを無理に読む必要はありません。それでブックオフに売りに行こうと思った。どうぞご自由に。でもブックオフでこの本を買った人が不幸だから、思い直してゴミ箱に捨てた!

 そういうことを著者であるぼくに、わざわざフェイスブックで報告してきた人がいるんです。これ、本当の話ですよ。で、ぼくは気分を害したかというと、とんでもない、「なかなか見所があるじゃないか」と自分の本を見直しましたね。だって「ゴミ箱に捨てた!」というような激烈な反応を一読者のなかに引き起こしたのですから。毒にも薬にもならないような本が溢れかえっているなかにあって、あっぱれなことではありませんか。みなさん、小説を書く以上、このくらい図太くなければいけませんよ。

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