小説家片山恭一の文章の書き方

5 文章が書けないとダメなの?

 どうなんでしょうねえ。別にダメってことはないんじゃないでしょうか。ぼくたちの日常で文章が書けないと困るってことは、ほとんどないでしょう? 一昔前はねえ、やっぱり文章を書くって大事な人生のスキルだったと思うんですよ。

 ぼくが学生のころだから、もう40年以上前の話だけど、たとえば卒業を控えた同級生が企業や官公庁などに就職の面接に行く。そのとき担任の教授が、はがきにボールペンでさらさらっと紹介状みたいなものを書いていました。もう還暦近い人でしたけどね。囲碁が好きで、昼休みなどに助教授とよく碁を打っていた。その対局を中断して、ちょこちょこっと書くわけです。ぼくは生意気な学生で、教授にも助教授にも反抗ばかりしていましたけど、そのときはさすがに感心しましたね。こんなことはぼくたちにはできないぞって。だからいまでも印象深くおぼえています。

 あと平安時代なら、和歌が詠めないとダメですね。男も女も人間失格です。『源氏物語』は平安京の内裏という狭い世界を舞台にした物語ですが、ここでは男も女もさかんに歌のやり取りをしています。当時は藤原氏の摂関政治の時代で、家柄だけがすべてという世界でした。そのなかで下級の貴族が、たとえば後宮の女性にアクセスするには歌しかないわけです。歌を贈って相手の心を射止めてしまう。さらに夜這いとか繰り返して、立身出世の足掛かりをつくっていくわけです。だから気の利いた歌が詠めるかどうかは、まさに運命の分かれ道でした。辛いなあ。

 でも幸い、いまは平安時代じゃありません。ぼくが学生だった40年前とも、ずいぶん社会や人間関係のあり方は変わりました。気の利いた文章を書く機会なんて、そんなにないでしょう? 結婚式の祝辞、葬式の弔辞、何かの挨拶、お見舞いやお礼の手紙……ネットを検索すればちゃんとテンプレートが出てきます。警察の調書みたいなものです。だいたいの文章は出来上がっていて、変数のところだけ自分で入力していけばいい。AIでも書けそうです。

 あとはSNSですよね。メールかLineかTwitterかFBか、そういうのは文章というほどの文章じゃないですからね。あまり巧い下手は関係ないんじゃないでしょうか。写真とか動画とか、視覚的なものに頼っている面の大きいし。ぼくは友だちの学習塾で中学生に国語を教えています。高校入試には作文があって、かなり配点が大きいんです。だから点がとれるように指導するのですが、だいたいみんな書けるようになります。高校入試の作文が書けるくらいなら、普通の日常生活で困ることはないと考えていいんじゃないでしょうかね。

 だからこのコラムのタイトル、「文章が書けないとダメなの?」にたいする答えは、「いいえ、文章なんて書けなくても大丈夫です。安心してください」というものです。

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