片山恭一の小説家になるまでと小説の書き方

小説と童話性

 つぎに宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を見てみよう。主人公の名前はジョバンニ、親友がカムパネルラで、ザネリという同級生がいる。「いったいどこの話だ?」って思うよね。ジョバンニはお父さんが不在で、お母さんは病気で寝ている。彼は家計を助けるために放課後、活版所で活字拾いのアルバイトをしている。一日の報酬は「銀貨」が一枚。「円」でも「ドル」でもないってとこがミソだな。その銀貨でジョバンニはパンと角砂糖を買って家に帰る。物語のなかには登場しないが、彼にはお姉さんがいて弟のためにトマトサラダか何かを作ってくれている。パン、トマト、角砂糖、牛乳……そんなものを食べて一家は暮らしているようだ。

 最初の数ページはこんな具合だ。その後も「ケンタウルス祭」だの「プリオシン海岸」だの「アルビレオの観測所」だの、無国籍的な固有名詞がばんばん出てくる。一方で「新世界交響曲」や「インディアン」という国籍をもった言葉も出てくるから、無国籍的というよりは非日本的と言ったほうがいいかもしれない。つまり日本的なものが周到に排除されているわけだ。日本的なものを排除して作品世界がつくられている。ナショナルかインターナショナルかといった話でもないと思うけどね。

 日本語で書かれているけれど、作品は日本語の彼方に開かれている。そんなふうに言ったほうがいいかもしれない。現実の世界のなかに位置づけられず、場所をもたない一つの小宇宙、いわば普遍的な世界に作者の視線は向けられている。これが宮沢賢治のつくろうとしたフィクションの場所だ。

 『銀河鉄道の夜』については細かな調査研究が進んでいて、たとえば銀河鉄道のモデルは岩手軽便鉄道であるとか、プリオシン海岸は北上川のイギリス海岸であるとか、作者は実存する場所や事柄をかなり作品のなかに取り入れているらしい。ジョバンニとカムパネルラが乗っている列車に、途中から姉弟を連れた青年が乗り込んでくる。ここは1912年に起こったタイタニック号の沈没事故をモデルにしていると言われている。『銀河鉄道の夜』の第一次稿の成立が1924年ごろだから、賢治は十年ほど前に起こった事故を作品のなかに取り入れているわけだね。また作品の最後に出てくる、ボートから川に落ちたザネリを助けようとしてカムパネルラが溺れたというエピソードも、賢治が子どものころ実際に見聞きした北上川での溺死事故がモデルになっているらしい。

 一つの作品を書く場合に、すべてを架空のものとしてつくり出すのは大変だ。やはり現実の風景とか、実際にあった事柄を使うことになる。それらを賢治はわりと無造作にというか、そのまま使っている感じがする。日常的な生の素材を、幻想的な銀河の旅というメルヘンの世界にはめ込むと、普通なら不自然な感じになりそうなんだけど、『銀河鉄道の夜』という作品では、現実の素材が幻想的な風景のなかに溶かし込まれて、一つの破綻のない作品世界を構成している。使われている素材が有効に機能している。それは作者の視線が固定されて揺るいでいないからだと思う。
 この作品で作者は何を描きたかったのだろう? 『銀河鉄道の夜』という作品のために設えられた視点、構築されたフィクションによって、どういうものを描き出そうとしたのだろうか。

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない。」

「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでゐました。

「けれどもほんたうのわいはひは一体何だらう。」ジョバンニが云ひました。

「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云ひました。

「僕たちしっかりやらうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧くやうにふうと息をしながら云ひました。

 作品の終盤で主人公の二人が交わす会話だ。こうした場面で作者が象徴的に描こうとしているのは、自己と他者との「無償性を介した関係」みたいなものだと思う。無償性を軸として形づくられる関係性の世界が、賢治にとっての「童話」だったと言ってもいいのかもしれない。ジョバンニもカムパネルラも、大人ではないけれど子どもでもない、という微妙な年齢にある。法を犯して捉えられているらしいジョバンニの父親のことをめぐり、細やかな気遣いを交わし合うことができるという程度に、二人とも幼児性を脱している。しかし青年期の「性の世界」には至っていない。そういう子どもと大人のあいだにある微妙な時期、あっという間に通り過ぎて二度と戻らない世界。それを一つの普遍性として、賢治は取り出したかったんじゃないかな。

 それが賢治にとっての「童話」だった。幼児性にも大人性にも還元できない世界。別の言い方をすると、作者自身が現実にも、夢や幻想にも還元したくないと考えている世界。それを彼は「童話」としてリアルに構築したかったのだと思う。賢治にとっての虚構=童話の意味は、そんなところにある気がする。

 現実にも、また夢や幻想にも還元できない世界。それはどこにあるのか。作品のなかにある。その作品はどこにも還元できない、作品それ自体としか言いようがない。本来の意味での「作品」とは、そういうものだと思う。作品によって読者をどこかへ連れて行きたい。現世を超えたどこか。ここではないどこか。生と死を超えたどこか。現実と信仰を超えたどこか。人は人であり、樹木は樹木であり、動物は動物であるといった同一律を超えたどこか……。宮沢賢治のフィクション(童話)を紡ぎ出す視線は、そうした場所にぴったり照準を合わせているように思う。

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