片山恭一の小説家になるまでと小説の書き方

個人誌のようなものをはじめた

 不安定な日々のなかで、なんとなく小説らしいものを書きはじめた。人に読んでもらう気にはなれなかったね。だから書いたものが溜っていく一方という状態でね。最初のうちはそれでもよかったんだ。書くことで自分が癒されるというか、解放されるというか、そのためにせっせと書いているようなものだったから。


 小説を書きはじめたのは、要するに論文が書けなかったからだ。学会誌っていうのは一応審査があって、ある規格や基準を満たしたものしか掲載してくれない。ぼくが書いているようなものはどこにも発表のあてがなかった。これはいまでもそうで、だからブログに好きなことを書くというのは、案外自分には向いているのかもしれないと思う。


 じつは昔から同じようなことをやっていたんだ。大学院に籍を置いていたおかげで、研究室のコピー機を自由に使うことができた。当時はほとんど無制限に何枚でもコピーできた。これを使って個人誌のようなものをはじめたんだ。雑誌の名前は『Pierrot Le Fou』でゴダールだ。そういうのがカッコいいと思っていたんだね。ヌーヴェル・ヴァーグの映画はよく観たなあ。アントニオーニとタルコフスキーも、ほとんどの作品を劇場で観ているはずだ。


 個人誌だから原稿は全部自分で書く。いまでも少し手元に残っているよ。ノートに万年筆で書いたものをコピーしていたみたいだね。ちょっとタイトルだけ紹介してみようか。第一回「表現主体としての〈人間〉の解体」。これはフーコーの『言葉と物』だ。第二回「内部と外部」。こちらはデリダ。第三回「構成力としての幾何学」はフッサール。第四回「数学的自然と〈コギト〉の形成」。ガリレオ・ガリレイとデカルトだ。これにブランショやハイデガー、レヴィ=ストロースやソシュールなどが入ってくる。完全にフランスの現代思想だよね。


 当時のトレンドだった柄谷行人みたいなことをやりたかったんだろうね。小説なのかアフォリズムなのかわからない妙なものも書いていた。あとは吉本隆明の「状況への発言」みたいなものとかね。だいたい三つくらいコンテンツを用意して、大学のコピー機で20部くらい刷って友だちに配っていた。もらったほうは迷惑だったろうね。ホッチキスで綴じて、表紙の絵も自分で描いていた。ルオーのキリスト像の模写とか、パウル・クレーみたいなのとか。


 とにかくやりたい放題だった。若かったんだなあ。しかし生活の不安は常にあった。一応、奥さんが看護師をしていたので人並みに暮らしてはいけたんだけど、やっぱり自分で稼がないと精神衛生上よくないんだよ。なんか卑屈になって、気持ちが鬱々としてくる。あまりプレッシャーをかけない人だったんだけどね、うちの奥さんは。

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