片山恭一の小説家になるまでと小説の書き方

三人称で物語を進める場合、物語の空間はずっと広くなる

 三人称で物語を進める場合、語り手は作品の外側にいる。外側から、その物語を語るという構造になっている。この場合、物語は一人の登場人物の存在に制約されない。複数の登場人物について、その行動や会話や思考や感情を叙述できるので、物語の空間はずっと広くなる。


 みなさん『源氏物語』はご存知ですよね。この作品は、大まかな筋だけを見れば、光源氏を中心とした約七十年の物語と言うことができる。でも主人公である光源氏の他に、主要な登場人物だけで50人くらいいる。そして六条の御息所とか葵の上とか、源氏を取り巻く人々、とくに彼の妻や愛人たちの心情も細やかに描写される。だから『源氏物語』という作品の空間は、光源氏を中心とした貴族たちの世界であり、物理的に言えば、平安京の内裏を中心とした天皇や官位の高い貴族たち、その妻や側室、側近の女性たちの暮らす世界と言うことができる。


 もう一つ、この作品の大きな構成要素は物の怪や生霊だ。現代のぼくたちの感覚からすると超常的なものたちが、幽界から貴人たちの世界へ介入し、物語を活性化している。とくに六条の御息所の生霊は、光源氏に匹敵するほどの存在感をもって作品全体を覆っている。こうした異界のものたちに登場人物たちが遭遇する場面で、作者(紫式部)の筆はとくに冴えていると思うんだけどな。


 たとえば「葵」という章(帖)に、六条の御息所の生霊を駆り出す場面がある。源氏の正妻である葵の上が、物の怪に取り憑かれて苦しんでいる。いろいろ修法や祈祷をやってみると、物の怪や生霊のようなものがたくさん出てきた。ところが一つだけ、しつこく取り憑いて離れない物の怪がある。

   出産を控えた葵の上の容体は悪くなる一方だ。源氏が見舞うと、葵の上に取り憑いている物の怪が、「苦しくてしょうがないから調伏を緩めてくれ」と訴える。嘆願しているのは葵の上なんだけど、その声も顔も六条の御息所にそっくりになっていく。


 やがて子どもは無事に生まれるが、葵の上は産褥で苦しみつづける。一方、六条の御息所は自分が生霊として葵の上に取り憑いているという噂を気に病んでいる。その御息所が、ぼんやりとしていてふと気がつくと、祈祷の護摩に焚く芥子の匂いが着物に染み込んでいる。いくら髪を洗っても着物を替えても、身体に染み付いた匂いは消えない……という生々しく印象的な場面だ。


 語り手はまず葵の上が産気づいて苦しんでいるところ、祈祷で物の怪を調伏する場面について物語る。葵の上が、とりあえず男の子を無事に出産したところで場面が変わり、六条の御息所の着物に芥子の匂いが染み込んでいたというエピソードが物語られる。


 ここで物語を語っているのは誰だろう? 何者と考えればいいんだろう。とりあえず作者の紫式部は、源氏の近くにいる女房が宮中内の出来事を語る、という書き方をしているように思う。紫式部自身が、夫を亡くしたあと藤原道長の娘(中宮彰子)に使えているから、自分に近い語り手を設定したのだと思う。でも、そういう解釈では説明のつかないところがある。たとえばこんなところだ。

 左大臣家では、葵の上に物の怪がさかんに現れて、その度、御病人はたいそうお苦しみになります。

 六条の御息所は、それを御自身の生霊とか、亡き父大臣の死霊などと、噂している者があるとお聞きになるにつけて、あれこれと考えつづけてごらんになります。いつでも自分ひとりの不幸を嘆くばかりで、それよりほかに他人の身の上を悪くなれなど、呪う心はさらさらなかった。けれども人はあまり悩みつづけると自分で知らない間に、魂が体から抜け出してさ迷い離れていくといわれているから、もしかしたら自分にもそういうこともあて、あの方にとり憑いていたのかもしれないと、思い当たる節もあるのでした。(紫式部『源氏物語』「葵」瀬戸内寂聴訳)

引用した箇所で斜体になっているところは、六条の御息所の心のなかをそのまま描写する書き方になっている。あたかも語り手が、登場人物の心のなかを覗き込んでいるかのようだ。参考のために原文を引いておこう。

 大殿には、御物の怪いたう起こりていみじうわづらひたまふ。この御生霊、故父大臣の御霊など言ふものありと聞きたまふにつけて、思しつづくれば、身ひとつのうき嘆きよりほかに人をあしかれなどと思ふ心もなけれど、もの思ひにあくがるなる魂は、さもやあらむと思し知らるることもあり。(小学館『日本古典文学全集』)

 原文はたったこれだけだ。素っ気ないくらいだよね。瀬戸内さんの現代語訳は、ずいぶん解釈や説明を補っていることがわかる。瀬戸内訳よりも古い与謝野晶子の訳ではつぎのようになっている。

 葵の君の容体はますます悪い。六条の御息所の生霊であるとも、その父である故人の大臣の亡霊が憑いている言われる噂の聞こえて来た時、御息所は自分自身の薄命を歎くほかに人を詛う心などはないが、物思いがつのればからだから離れることのあるという魂はあるいはそんな恨みを告に源氏の夫人の病床へ出没するのかもしれないと、こんなふうに悟られることもあるのであった。(『角川文庫』)

 かなりあっさりしている。原文をそのまま訳しているという感じだ。オリジナルの雰囲気を伝えるのは与謝野訳のほうかもしれないけど、あまりにも簡略すぎて、いまのぼくたちからすると心もとない。ちょっとわかりにくくなっているところもある。どの現代語訳で読むかは難しいところだけど、やっぱり何種類かの訳を参考にするのがいいと思うな。

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