片山恭一の小説家になるまでと小説の書き方

語り手が物語の空間を作り出す

 今日は小説の空間について考えてみよう。小説では語り手が物語の空間を作り出す。その場合に、「ぼく」や「私」という一人称で書くか、「彼」や「彼女」や「誰其」という三人称で書くかによって、紡ぎ出される物語の空間はかなり違ったものになる。それは語り手と作品の位置関係が変わるからだ。 一人称で書く場合、「ぼく」や「私」は主人公であると同時に語り手でもある。一人称の小説では、語り手は登場人物の一人として物語のなかにいる。そして他の登場人物と会話をしたり交わったりする。だから物語の空間は、語り手である「ぼく」や「私」が見たり聞いたりしているもの、知っているものに限定される。原則として、語り手がいる場所で起こることだけが記述される。一人称の語り手は、自分の手の届く範囲のことしか語ることができない。具体的に見てみようか。

 朝、目が覚めると泣いていた。いつものことだ。悲しいのかどうかさえ、もうわからない。涙と一緒に、感情はどこかへ流れていった。しばらく布団のなかでぼんやりしていると、母がやって来て、「そろそろ起きなさい」と言った。

 雪は降っていなかったが、道路は凍結して白っぽくなっていた。半分くらいの車はチェーンを付けて走っている。父が運転する車の助手席に、アキの父親が坐った。アキの母親とぼくは後部座席に乗り込んだ。車が動きだした。運転席と助手席の男たちは、雪の話ばかりしている。搭乗時間までに空港に着けるだろうか。飛行機は予定通りに飛ぶだろうか。後部座席の二人はほとんど喋らない。ぼくは車の窓から、通りすぎていく景色をぼんやり眺めていた。(片山恭一『世界の中心で、愛をさけぶ』)

 いきなりぼくの小説でごめんね。説明しやすいので使わせてもらいます。この小説のことなら、ぼくはよく知っているからね。引用した箇所は冒頭の部分だが、語り手の「ぼく」はすでに物語のなかにいる。そして泣いたり、車から外の景色を眺めたりしているわけだ。こんなふうに一人称で小説を書く場合、なんというか語り手はいつも物語のなかに露出している。読者が読むのは物語のなかにいる「ぼく」や「私」の行動、喋ったり考えたり感じたりしていることだ。ここまではいいよね。  

 語り手を一人称にすることで、物語の空間は狭くなる。描ける範囲が制約されるからね。それは一人称を使うことのデメリットでもある。しかし『世界の中心で、愛をさけぶ』という小説を、もし三人称で書いていたら、作品の印象は弱いものになったんじゃないかな。この小説で扱われるのは、誰かを好きになることであり、その大切な人を失うという、いわば悲痛な体験だ。この体験を「ぼく」という一人称の話者が語っていく。読者は「ぼく」に寄り添って、彼の心のなかを覗き込むようにして、辛く悲しい体験を分かち合うことになる。まあ、上手に書けていればね。

 アキは口のなかで何か言いかけたけれど、ぼくにはもう聞き取れなかった。行ってしまうのだ、と思った。切り立ったガラスのような思い出だけを残して、彼女は行ってしまうのだ。

 頭のなかいっぱいに、真っ青な海が広がった。あそこにはすべてがあった。何も欠けていなかった。すべてを持っていた。ところがいま、その思い出に触れようとすると、ぼくの手は血だらけになってしまう。あのまま永遠に漂っていたかった。そしてアキと二人で、海のきらめきになってしまいたかった。(同前)

 しつこくぼくの小説だ。最愛の人との別れの場面だな。これをたとえば「彼は心が張り裂けるような悲しみを感じた」というふうに書くと、説得力がなくなると思わないか? 題材や内容によっては、一人称で書いたほうがいい場合もあるんだ。反対に三人称を採用すべき場合もある。一概には言えないし、これは小説というジャンルの本質にかかわる難しい問題と言っていいだろう。

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