片山恭一の小説家になるまでと小説の書き方

小説を書くには視点を見つける力が重要

 フィクション(虚構)の反対はファクト(事実)だ。ノンフィクションでは、あくまでファクト(事実)が重視される。事実によって書き換えられ、更新されていく。新しい事実によって、かつての「事実」が覆されるといったことは常に起こってくるわけだ。でも小説ではそんなことは起こらない。新しく発見された事実によって、その小説が覆るということはありえない。なぜなら小説は最初から事実に依拠しないフィクションだからだ。

 もちろん小説も経年劣化を起こす。つまり古くなる。そうして多くの作品が過去のものになり、忘れられていくわけだ。でも小説が古びるのは、そこに書かれている事実が古くなるのではなく、スタイルが古くなるのだと思う。前に小説的なフィクションとは視点を固定(fix)することである、という仮説を立てたよね。この仮説に基づいて言えば、小説が古びるのは、その小説を支えている視点が古びるからだろうと思う。

 ぼくたちが物事を見る視線や視点は多分に歴史的なものだ。たとえばセザンヌやモネのような、印象派と呼ばれる人たちが現れるまで、なんの変哲もない山や積み藁、自分の奥さんや友だちを絵のモチーフとして見る視点は存在しなかった。彼らがそうした眼差しを発明したと言ってもいいだろう。

 同じように、国木田独歩が『武蔵野』という作品を書くまでは、雑木林のような「ただの自然」を文学的なモチーフとして見る視点は存在しなかった。それ以前の日本の文芸で取り上げられてきた自然といえば、歌枕的な名所などがほとんどで、歌に詠まれる樹木しても、梅、松、桜といった特権的なものにかぎられていた。過去の日本にはなかった落葉した雑木林を「美」として見る感覚(視点)を、おそらくツルゲーネフなどの影響によって、独歩は日本の自然に導入し、作品の視点として固定(fix)したわけだ。この革新的な視線が、『武蔵野』という作品の文学的な価値と言っていいと思う。

ぜひ!SHARE