片山恭一の小説家になるまでと小説の書き方

「個人」の誕生とフィクション

 小説では物語の世界を様々に設定することができる。つまり書き手は自由に、自分の作品の小説的世界をつくることがでるわけだ。これまで見てきた例で言えば、文明崩壊後の未来、人類の滅亡が迫る終末世界、高度な科学技術に支えられた宇宙空間などだね。もちろん小沼丹の作品のように、誰もが知っている日常を題材にしてもいいわけだ。

 ここで最初の問いに戻ろう。フィクションとは何か? 小説におけるフィクション(fiction)とは? 友人の永井君は「fix」することではないかと言う。語源的には違うだろうけれど、そう考えるとフィクションというものをうまく説明できる。ある現実世界を設定する、書き手が決めて固定する、それが小説におけるフィクションである。その結果、文明崩壊後の未来や、人類の滅亡が迫る終末世界や、高度な科学技術に支えられた宇宙空間といった、様々な小説的世界が立ち現れてくる。
 英語の「fix」には注意を向ける、思いを凝らすといった意味もある。小説におけるフィクションには、作者がある現実のレベルに注意を向ける、そこで叙述の視点を決定し、固定する、といった操作が含まれている。その際の注意の向け方、設定する視点は、ほぼ無数にあると言っていいだろう。一人ひとりの作者が自分の視点をもっており、また一人の作者のなかにも無数の視点がある。こうして無限に多様な小説が書かれることになるわけだ。

 こんなことが可能になったのは、やっぱり「個人」が誕生したからだと思う。言うまでもなく、「個人」というのは近代の所産だ。近代以前のヨーロッパの社会では、「世界」とは神が創ったただ一つの世界だった。世界を見る視線も、神が創った世界を正しく見るための、いわば真理への眼差しがあるだけだった。この眼差しがヨーロッパの哲学や自然科学をつくり上げてきた。
 世界は数学の言語で書かれている、とガリレオは述べている(『偽金鑑識官』)。神が創った世界を正しく見るためのツールが数学、とりわけ幾何学であると彼は考えていた。こうした考え方はデカルトやライプニッツ、カントなどに受け継がれていく。そしてヘーゲルによって集大成されるとともに行き詰まった、とぼくは考えている。

 それはともかく、神なき世界に産み落とされた近代文学は世界を個人仕様にしてしまった。つまり「世界は個人が勝手につくってもいい」と考えたわけだね。少なくとも小説的思考は、一人ひとりに個別の世界を見る視点がある、という前提から出発する。その視点によって、無数の小説的世界が生まれてくる。これが小説におけるフィクションのあり方だ。
 言うまでもないだろうけど、これらのことはあくまでぼくの個人的見解であり、けっして一般的なものではないので、そのあたり誤解のないように。さて次回は、フィクションによってどんな小説的世界が生み出されてきたか。幾つかの作品を例にとりながら、作者は何を意図して、それぞれの小説的世界を描き出したのか、といったことを考えてみよう。

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