片山恭一の小説家になるまでと小説の書き方

続フィクションと小説

フィクションの話のつづき。もう一つの例を見てみよう。

 今朝早く、すなわち二〇二一年一月一日午前零時三分過ぎ、この地球で誕生した最後の人間がブエノス・アイレス郊外のパブで喧嘩騒ぎに巻き込まれて、二十五歳二ヵ月十二日の生涯を閉じた。第一報をそのまま信じれば、ジョセフ・リカルドの死にざまはその生涯に通じるものがあった。誕生を公式に記録された最後の人類という、個人の美徳や才能とは無関係の名声(と言えるかどうか)は、リカルドにとって常に手に余るものだった。その彼が死んだ。(P・D・ジェイムズ『トゥモロー・ワールド』青木久恵訳))

フィクションには現実性が必要

 この作品の小説的現実は、なんらかの原因で人間が生殖能力を失った世界だ。二十五年前に生まれた最後の人間が死ぬところから物語がはじまる。舞台はイギリス、ロンドンやオックスフォードとはっきり書かれているから、やはり未来小説ということになるだろうね。いまや多くの人が人類滅亡の日は近いと感じている。放射能や環境汚染が原因で、人間が生殖能力を失うという設定は、なんとなくありそうな気がしてくるだろう? そのあたりが作品の説得力になっているわけだ。

 何を描きたいのか。なんのために、どのような小説的現実を設定するか。漠然とSFや未来小説っぽいものを書いてみようとするのは、懸命なやり方ではないと思うな。失敗する可能性が高いからだ。特異な現実の上に物語を構築していくことは、かなりの力技と言っていい。それなりの技量と体力が要求される。よほど明確なモチーフやヴィジョンがないかぎり、通常の現実世界、つまりぼくたちが現にそこを生きていて、誰もがよく知っている現実のレベルで書いたほうが安全だろう。

 これが太陽の見納めかな。

 赤外線分光器、X線分光器、温度センサ、レーザー測定器、磁力、プラズマ、イオンなどなどの検出器、その他もろもろのあらゆる観測装置のアンテナがノイズの邪魔に音を上げて太陽方向に頭をたれた。可視光で見える太陽は弱々しく、その背後に埋没しつつある。最後までがんばっている重力計だけが後ろ髪をひかれてでもいるかのように、名残惜しげに身震いしている。(六冬和生『みずは無間』)

 こんなふうに物語をはじめてしまうと、あとが大変だぞ。太陽系の外へ旅立とうとしている無人探査機が物語の舞台だ。かなり高度な科学技術が確立された未来が、作者が描こうとしている世界だ。無人探査機に搭載されたAIを主人公=語り手として物語は進む。正確には、AIに転写された科学者の人格が、いろんなことを思い出したり考えたりするわけだけどね。当然、コンピュータや人工知能にかんする豊富な知識が必要になる。それらの知識を駆使して、設定された世界が破綻を来さないように、最後まで物語を進めるのは相当な力技だよ。短編ならまだしも長編ではなおさらのこと。この『みずは無間』という小説ではうまくいっている。かなり力と才能のある作者だと感じたな。

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