では、つぎの作品はどうだろう。
フィッシュ葬儀社の三男坊が人を殺してその肉を食べたこと自体は、まあ、目くじらを立てるほどのことでもない。ヘレイン法が施行されてからのこの三年というもの、国じゅうでその類のことは起こるべくして起こってきたわけだし、カンザスシティ・フリープレスによれば先だってもリトルロックでT・V・マントルという男が逮捕された。マントルは会員制の美食クラブをつくり、そこで本物の肉を出していたのだが、言い渡されたのはたった一年半の禁錮刑だった。(東山彰良『ブラックライダー』)
こちらは先ほどの小沼丹の小説のように、安心して作品世界に入っていくことはできない。何しろ作者が描こうとしているのは、「人を殺してその肉を食べたこと自体は、まあ、目くじらを建てるほどのことでもない」という世界だからね。ここで二の足を踏んで、先を読むのをやめる人もいるかもしれない。
物語の舞台はアメリカらしい、ということはわかる。でも、そこは終末世界というか、文明が崩壊して人肉食が日常化しているかなり異常な世界だ。人間が向かっている一つの可能な未来として、作者はこうしたSF的な世界を創出したのかもしれない。それが『ブラックダイダー』という作品が依拠している現実だ。その現実は小沼丹の小説とは明らかに異なっている。つまりぼくたちがよく知っている現実からは、ちょっと外れているわけだ。未来においては交差するかもしれないけれど、いまぼくたちが生きているものとは異質な現実だ。
このように物語が依拠している現実は、作品によって異なる。これを「小説的現実」と呼ぶことにしよう。『ブラックライダー』という作品では、作者は人肉食が日常化した世界を小説的現実として設定し、この現実の上に物語を展開していく。大事なことは、最初に設定した現実のレベルを崩してはならないということだ。通常、小説の物語世界は、一つの小説的現実の上に構築される。「人を殺してその肉を食べたこと自体は、まあ、目くじらを建てるほどのことでもない」という現実のレベルを設定した以上、作品の登場人物は、人肉食が日常化したモラルや習慣のなかを生きなければならない。そこで彼らがどんなことを考え、感じ、どんな振る舞いを見せるか、ということが作品の出来を左右するわけだね。