片山恭一の小説家になるまでと小説の書き方

フィクションの話

 これから何回かにわたって虚構、つまりフィクションの話をしようと思う。大きな本屋さんへ行くと、フィクションとノンフィクションというふうに棚を分けているところがあるよね。言うまでもなく小説はフィクションだ。では、フィクションとは何か? これがなかなか難しい。辞書を引くと虚構、作り話、小説などと書いてある。もちろん小説は作り話だ。   つぎに「虚構」を調べてみよう。事実そのままではなく、作意を加えて一層強く真実味を印象づけようとすること、とある。なるほど。事実そのままではないってところがポイントだな。作意を加える、つまり文学的に意匠を凝らす、加工するってことだろうかね。   たしかに小説を「事実そのまま」と思って読む人はいないだろう。どの小説も多かれ少なかれ「事実そのまま」を外れているわけだけど、この外れ方、事実からの隔たり方にもいろいろあって、まずそっちの話をするほうがいいかもね。具体的に例を挙げて説明してみよう。

いつだったか、寒い日、溜まっていた古い林檎箱とか蜜柑箱を、裏の路に持出して燃すことにした。

溜った落葉なら庭の片隅で燃せるが、大きな木の箱となるとそうは行かない。狭い庭に木が沢山植わっているから、燃え移る危険がある。尤も、蜜柑箱一つぐらいなら庭でも構わないが、沢山溜って目障なので、それを路で一度に燃してやろうと思い附いた。

あれは、何年前のことだったかしらん?

木箱を金槌で壊して燃していると、どう云うものか、木枕の垢や伊吹に残る雪、焔とともにそんな句がちらちらしたのを想い出す。威勢良く燃える火に手を翳していると、自転車に乗った警官が通り掛った。

―――焚火ですか?(小沼丹「煙」)

 前にも紹介した小沼丹さんの作品だ。これは見たところ「事実そのまま」だよね。ある冬の日の体験をそのまま書いたように読める。小説というよりも随筆に近いものとも言ってもいいだろう。この作品が依拠している現実は、ぼくたちがよく知っているものだ。誰もが同じように生き、体験している現実で、ミステリアスなものは何もない。落ち葉、木箱、焚き火、自転車に乗った警官など、日常目にしているものばかりだ。ここに描かれている世界は、ぼくたちが生きている世界と地続きにあることがわかるだろう。だから安心して作品に入っていくことができる。

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