片山恭一の小説家になるまでと小説の書き方

小説のなかの時間2

 前回につづき時間の話です。ちょっと面倒くさい話になるかもしれないけれど、小説を組み立てる上では大事なところだ。   

小説のなかには二つの時間がある。一つは物語の時間(小説のなかで流れているとされる時間)で、もう一つは、それを叙述されるのに費やされる時間だ。   

 たとえば小説のなかで「つぎの日」と書けば、物語のなかでは一日の時間が流れたことになる。この場合、叙述に費やされる時間は「つぎの日」とか「翌日」という、きわめて短いものだ。「そして千年が過ぎた」と書けば、短い一文の叙述によって、物語を千年進めることができる。   

 先に見たビュトールの小説が面白いのは、物語の時間と叙述の時間が、ほとんど重なり合っていることだ。さらに言うと、それを読むために費やされる時間も、ほぼ同じになる。物語の時間と、叙述の時間と、読書の時間という三つの時間が重なり合っているわけだな。これらの時間を、できるだけ同じにしようとすると、自ずとビュトールのようなスタイル、文体になるのかもしれない。   

 着想としては面白いけれど、このスタイルで一冊の小説を読まされるのは、かなり苦痛かもしれないね。退屈と感じる人もいるだろう。ぼくもその一人だ。もちろん作者は新しい試みとして意識的にやっているわけだけどね。

 でも普通はビュトールのような書き方はせずに、簡潔に進めていいところは「つぎの日」とか、主人公の行動を描く場合も、「きみは真鍮の溝の上に左足を置き、右肩で扉を横にすこし押してみる」なんて細密画みたいな書き方はせずに、適当に省略して物語を進める。   

 言葉というのは不思議なもので、細かく叙述すればするほど、描かれていることが読者には見えなくなっていく。読者が読むのは言葉だからね。「彼は重いスーツケースを持って自分のコンパートメントに入った」と書けばいいところを、ビュトールのようにたくさん言葉を使って書くと、かえって描かれていることが浮かび上がらない。このことも頭に入れておこう。   

 物語の時間と叙述の時間。この二つの時間を操作することによって、いろんな印象を作り出すことができる。たとえば時間の流れを速くしたり、場面転換をうまく使ったりすることで、物語を加速させることができる。逆に物語を減速させることもできる。作品の山場は、加速、動的、凝集といった印象から作られることが多い。反対に、山場から山場へ橋渡しするところは、淡白に経過させたほうがいい。まあ一般論としてはね。 

  細かいカット割りや、登場人物の動きを大きくすることで動的な印象が生まれる。ワンショットでカメラをまわすと静的な印象になる。またズームとスローモーションによって凝集した場面をつくり出すことができる。登場人物の表情を描写するときなどは、このやり方がいいだろうね。反対にカメラを引いて遠景をさっと撮ると淡白な絵柄になる。人物の背景を描写するときは、こっちのほうがいいかもしれない。こうした印象を組み合わせて作品にリズムやメリハリをつけていくんだ。

 Kは夜おそく村に着いた。あたりは深い雪に覆われ、霧と闇につつまれていた。大きな城のありかを示す、ほんのかすかな明かりのけはいさえない。村へとつづく道に木橋がかかっており、Kはその上に佇んだまま、見定めのつかないあたりを、じっと見上げていた。

 それから宿を探しにいった。居酒屋はまだ開いていた。主人は夜ふけの客に肝をつぶし、うろたえたせいか、貸すための部屋はないが、藁袋の上でよければ食堂で寝てもいいと言った。Kは了解した。何人かの農夫がまだビールを飲んでいたが、Kは誰とも口をきかず、自分で藁袋を屋根裏から運び下ろし、暖炉の近くに横になった。暖かかった。農夫たちは口をつぐんでいる。Kは疲れた目で少し探るように彼らを見やってから、すぐに寝入った。(フランツ・カフカ『城』池内紀訳)

 作品の冒頭だ。この箇所を印象的にしているのは、作者が物語の時間と叙述の時間をうまくコントロールしているからだ。いま話した、加速と減速、動的と静的、凝集と希薄といったことは、この短いパラグラフにほとんど入っている。カフカはそういうことが本当に上手で、ぼくらからすると天才的じゃないかと思えることがある。じっくり味わって読んでみよう。

ぜひ!SHARE