片山恭一の小説家になるまでと小説の書き方

小説のなかの時間

 今日は小説のなかの時間について話をしよう。みなさんは『今昔物語』をご存知ですよね。名前くらいは知ってる? まあいいや。有名なところでは、芥川龍之介の「鼻」は『今昔物語』の説話を題材にしている。「鼻」はどちらかというとユーモラスな作品だけど、『今昔物語』のなかにはかなり不気味なもの、怪談めいたものもあるよ。生霊や物の怪もたくさん出てくるから、超常現象に興味のある人などが読むと面白いかもね。


 ところで『今昔物語』には千以上の話が収められているんだけど、どの話も例外なく「今は昔」ではじまる。だから『今昔物語』と呼ばれているわけだね。今は昔、むかしむかし……。そして結末は、「何々であったそうだ」とか、「何々と言い伝えられている」とか、これもだいたい決まっている。つまり現在という場所にいる者(語り手)が、過去の出来事を物語っているわけだ。『伊勢物語』の場合だと「昔、男ありけり」で、これも定型だ。この男が、ああして、こうして、こうなった、というのが話の中身になる。

  あの長大な『源氏物語』にしても、はじまりは「いづれの御時にか」で、「今は昔」のヴァリエーションだ。やっぱり定型を踏んでいるわけだね。こういう形式が原初の物語のかたちだったんじゃないかと思う。神話や伝説が、やっぱりこのスタイルだよね。たぶん物語というのは、神話や伝説みたいなものから出発しているってことじゃないかな。

 古い時代の小説も、やっぱりそういうかたちをとっている。ちょっと見てみようか。

  大地主のトリローニさんや、医者のリヴジー先生や、そのほかのかたがたは、わたしに、宝島についての詳細を、初めから終わりまで、すっかり書きとめておいてくれ、ただ、まだ掘りだしてない宝もあることだから、島の方角だけは隠しておいてくれ、といわれて。そこで、わたしは、西暦一七……年に筆をおこし、わたしの父が「ベンボー提督屋」という宿屋をやっていて、あの刀傷のある、日やけした老水夫が、はじめてわたしたちの家に泊まりこんだときまで、さかのぼることにする。(スティーヴンソン『宝島』佐々木直次郎・稲沢秀夫訳)

 古いといっても、『宝島』が発表されたのは19世紀の末だから、時代としては近代と言っていい。でも小説のスタイルとしては古い。神話や説話のスタイルをとっているからね。もう一つ。

  私の名はイシュメイルとしておこう。何年かまえ……はっきりといつのことかは聞かないでほしいが……私の財布はほとんど空になり、陸上には何一つ興味を惹くものはなくなったので、しばらく船で乗りまわして世界の海原を知ろうとおもった。憂鬱を払い、血行を整えるには、私はこの方法をとるのだ。(ハーマン・メルヴィル『白鯨』阿部知二訳)

 この『白鯨』という作品は、1851年に発表されたものだ。アメリカ文学を代表する偉大な作品ということになっていて、主題も内容も非常に斬新で現代的だ。それにしては語り口は古風だよね。おそらく作者のメルヴィルは意識的に、古い語りのスタイルを採用したんじゃないかな。イシュメイルやエイハブといった登場人物の名前は『旧約聖書』からとってある。作者のなかに、鯨をめぐる現代の神話を書こうという意図があったのかもしれないね。   では、つぎの作品はどうだろう。

 ぼくはヴィラ・ボルゲエゼに住んでいる。ここには塵っぱひとつなく、椅子の置場所ひとつまちがっていない。ここでは、ぼくたちはみな孤独であり、生気をうしなっている。

 昨夜ボリスは、からだに虱がたかっているのに気づいた。ぼくは彼の腋の下を剃ってやらなければならなかったが、それでもまだ痒みはとれなかった。こんなきれいなところにいて、どうして虱なんぞにたかられるのか。だが、そんなことはどうでもいい。ボリスとぼくは、もし虱がいなかったら、これほどなかよくはならなかったかもしれない。(ヘンリー・ミラー『北回帰線』大久保康雄訳)

 ここでは語り手が自分のことを現在の時制で語っている。このあとも「ぼく」の物語が、ほぼ現在進行形で展開していくことになる。「今は昔」とか「むかしむかし」という説話のスタイルからすると、なんとなく新しく、現代的な感じがするだろう? この作品が発表されたのは1934年だから、時代もこれまでのものからすると新しくなっている。

 きみは真鍮の溝の上に左足を置き、右肩で扉を横にすこし押してみるがうまく開かない。

 狭い入口のへりで体をこすりながら、きみはなかにはいり、それから、ぶとう酒の瓶のような暗緑色の、表面が粒状になった革製のスーツケース、長い旅行になれた男がよく手にしている小型のスーツケースのべとべとする握りのところを、あまり重くはないのだが、ここまでもってくることで熱っぽくなっている指でにぎって、もちあげると、きみの筋肉と腱の輪郭が、きみの一本一本の指、掌、握ったこぶし、腕に、さらにはきみの肩にも背中の片側半分にも、脊椎の頸から腰にいたるまでにも、くっきりと浮かびあがるのを、きみは感じる。(ミシェル・ビュトール『心変わり』清水徹訳)

 ミシェル・ビュトールの1957年の作品だ。これは語り手が二人称で語りかけている。しかも意図的に現在形だけを使っている。ちょっと珍しいスタイルだよね。このビュトールという人は、一般に「ヌーヴォー・ロマン」と呼ばれる、フランスの現代文学を刷新しようとした人たちの一人だ。

 みなさんはどのような語りのスタイルを採用したいと思うかな? 過去の回想というスタイルをとるか、それとも現在進行形で書いていくか。これは文体の問題でもあるし、これから書こうとしている作品の内容と密接に関係してくる。

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