十年ほど前に父を亡くしたとき、父のことを書いておきたいと思いました。親とか連れ合いとか子どもとか、大切な人を亡くしたときに、同様の気持ちに駆られる人は少なくないようです。ぼくは実際に父についてささやかな本を書きましたが、それは親の死にたいして心理的な距離を置くことであり、一種の喪の儀式でもあったのかもしれません。
多くの作家が自分の肉親との死別をきっかけに作品を書いています。前回紹介した阿部昭には『司令の休暇』という、海軍の職業軍人だった父親の戦後の暮らしと死を描いた小説があります。数年前にノーベル文学賞を受賞したペーター・ハントケの『幸せではないが、もういい』は、自死した母親のことを書いた作品です。ミシェル・ロスタンというフランス人作家の『ぼくが逝った日』という小説も、劇症性髄膜炎という病気で息子を亡くした自身の体験を、亡くなった息子の語りによって描いたという、ちょっと変わったものです。
これらの作品で描かれる父や母や息子は、どこといって傑出したところのない普通の人たちです。偉大な人物は一人もいません。どこにでもいる、ありきたりな人たち。でも書き手にとっては、特別な、かけがえのない人たちなのでしょう。ぼくの父も普通の平凡な人でしたが、やはりぼくにとってはかけがえのない人です。父と子という関係の一つひとつが、それぞれに固有で無二のものです。少なくとも書いている当人はそう思っている。だから書こうと思うわけでしょう。
フランスの哲学者ジル・ドゥルーズは芸術の本質を、究極的・絶対的な差異だと言っています。絶対的な差異であるから反復される。
究極的な差異である本質について、本質を反復する以外に何ができるであろうか。なぜなら、本質は置きかえられないものであり、何ものも本質のかわりをすることはできないからである。すぐれた音楽は、繰り返し演奏されるほかなく、詩は暗記され、語られるほかないのはこのためである。(『プルーストとシーニュ』宇波彰訳)
すると芸術の、あるいは文学の可能性とは、愛の可能性ということになるでしょう。愛とは、その人のことを永遠に反復したいという衝動だからです。