私小説というジャンルがあります。日本独特のものとも言われます。もともと明治時代の自然主義文学のなかから生まれてきたものだそうです。そのころの代表的な作家は田山花袋、正宗白鳥、島崎藤村、志賀直哉あたりでしょうかね。文学の素材を狭く限定するということで、当時から否定的に言及されることが多かった。プロレタリア文学も新感覚派も第一次戦後派も、みんな私小説を攻撃しました。トルストイの『アンナ・カレーニナ』あたりを近代小説の模範とすれば、たしかに物足りなくはあるでしょう。
しかし現在に至るまで私小説は書かれつづけているし、愛好家も多いようです。ぼくも小沼丹とか永井龍男とか庄野潤三とか藤枝静男とか阿部昭とか、好きな作家が多いです。彼らの作品の特徴は、作家自身の身辺に起こったことを、できるだけ脚色したり膨らませたりせずに書くということです。そのため作品は随筆に近いものになる。鴨長明の『方丈記』なんかを私小説の祖先と考えることもできるかもしれません。
もちろん生身の人間ですから、持て余す性欲とか、父親との葛藤とか、恋愛の苦悩とか、困窮した生活とか、辛い闘病生活とか、暗くて重たい題材を扱ったものも多いのですが、いまあげたような人たちは、どちらかというと軽めの飄々とした作風を特徴としています。ときにほのかなユーモアやペーソスを湛える。たとえばこんな感じです。
毎朝、私は子供たちが起き出す少し前に目覚めるが、さめてもしばらくはじっとしている。あるいは、起きて着換えをしたあと、自分の部屋でぼんやり煙草を吹かしている。
なにも急ぐことはない。彼らは三人とも学校へ行くのに、私はどこといって行くところはないのだから。私が起きて行っても、食卓の混乱が無用に増すばかりだろう。その上、一分刻みの行動で血相を変えている子供たちと、それを傍から叱咤している母親との戦争みたいな空気にも巻き込まれずには済まない。それが厭だから、床の中で時間をつぶしているのである。(阿部昭『単純な生活』)
タイトルどおり作者自身の「単純な生活」が綴られていきます。題材はほぼ日常生活に限られる。家庭の他には編集者との交渉とか仲間付きあいとか。社会への関心が薄いと言えば薄い。高い理想に燃えている気配もあまりありません。志が低いってことで、プロレタリア文学一派から批判されたのも頷けます。
では面白くないかというと、やっぱり私小説には私小説の味わいがあります。誰でも心当たりのある身近な題材だから共感できるってこともある。さらに文体のやわらかさとか、些末な事柄にたいする細やかなまなざしとか、魅力はたくさんあります。
この阿部昭さんの作品などには、ありきたりな一日をかけがえのない一日として描きたい、という作者の控えめな意思を感じます。何気ない一日一日を固有の差異として描く。そのために言葉を磨く。「単純な生活」というタイトルの背後には、そんな作者の矜持が感じられないでしょうか。