前回につづいてカミュの『異邦人』の話をしましょう。前にも述べたように、この作品は二部構成になっていて、第一部では母親の葬儀、ガールフレンドとの交際、素性の悪い隣人との関係、事務所での仕事、老人と飼い犬のエピソード、隣人の手紙を代筆する一件、アラブ人とのトラブル、ガールフレンドと一緒に隣人の知り合いの別荘で週末を過ごすこと、岩陰の泉のところで出会ったアラブ人を、主人公がほとんど偶発的な事故のようにして殺してしまうこと、などが時系列的に描かれていきます。
一つひとつの出来事はそれ自体で完結している。つまり個々のエピソードとして物語を構成しています。ところが第二部になると、裁判の過程でこれら些細なエピソードがあるまとまった意味をもちはじめます。たとえば主人公が亡くなった母親の死に顔を見ようとしなかったこと、通夜で居眠りをしたこと、タバコを吸ったこと、カフェオレを飲んだこと、これらが殺人を犯した者の行為という観点から整序しなおされると、薄情で感情に乏しく常識や礼節を欠いている、といった容疑者の人間像をつくり上げていく。
また葬儀の翌日にガールフレンドと泳ぎに行ったり、映画を観にいったり、一夜を過ごしたりしたことが、主人公に非倫理的という烙印を押します。女性を食い物にしているような男と親しく付き合い、彼のために手紙の代筆までしてやったことが、裁判官や陪審員たちの前で主人公を反社会的な人間として可視化していきます。
こうして第一部では物語を構成する差異であったものが、第二部になると一つの意味に束ねられていくのです。その意味とは、主人公の「有罪」ということです。それは最終的にムルソーの処刑というところに行き着きます。これが法の言葉だと思います。個々のエピソードに過ぎなかったものを、薄情、冷淡、非倫理的といった主人公の人間像に束ねていく。法の言葉とはわかりやすい一般化であり、その先には罪の共同化があります。『異邦人』では陪審員のなかで罪が共同化されることによって、主人公にたいして死刑という判決が下されます。
前にドストエフスキーの『罪と罰』に出てくるマルメラードフという男の話をしました。元は地方の下級官吏でしたが、酒で職を失い、いまは娘に売春をさせて、その金で酒を飲んでいるという、どうしようもないやつ……といった要約の仕方が、まさに法の言葉なのです。それにたいしてドストエフスキーは、マルメラードフという一人の人間が抱える苦悩を言葉にしていくことで、彼を固有な一人の人間として救い出します。これが文学なのだと思います。
法の言葉が同一性に向かうのにたいして、文学の言葉はあくまでも個々の差異に焦点を合わせる。ある人物を取り巻くエピソードを一つひとつの差異として保持することで、一人の固有な人間について語りつづけようとする。そこには「罪」や「処罰」の観念は生まれません。これらの観念は法の言葉による共同化や一般化によって生まれます。したがって善悪の彼岸をめざすのが文学である、と言うこともできるでしょう。