小説家片山恭一の文章の書き方

18 宮沢賢治のオノマトペ

 なんかずっと寄り道ばかりしている気がします。「文章の書き方」という主題はどこへ行ったんだ? あまり遠くへは行ってないはずだけど、とりあえず姿は見えません。まあ、この先もずっとこんな調子かもしれませんので、そのつもりでお付き合いください。

 紀貫之や紀友則の歌を見て、つぎに梶井基次郎や芥川龍之介の小説を見ると、同じように事物を描く(詠む)といっても、作品のなかで事物が提示するものはずいぶん違っていることがわかります。和歌のなかで事物が果たしている役割は、ある共同体的な場をつくり出すことです。花鳥風月や雪月花といった事物を詠むことにで、「はかなさ」「もの悲しさ」「わびしさ」「寂しさ」「望郷」「孤独」「愁い」……といった情感の場が生まれる。

 だから和歌を詠むってことには、少なくとも勅撰が編まれていたころまでは、あまり「自己」という意識は入り込まなかったのかもしれません。むしろ共同体的な場の意識のほうが強かったように思います。じゃあ恋歌はどうだ、ということになる。たしかに「あらざらむこの世のほかの思ひ出に いまひとたびの逢ふこともがな」という和泉式部の歌などは、かなり作者の自己が表現されている気がしますよね。また西行の残した歌なども、プライベートな感じのするものが多い。そのあたりはぼくにもよくわかりませんが、この人たちは近代の自我みたいなものを先取りしていたってことかもしれません。

 小説というのはまさに近代の産物ですから、言葉の扱い方もさらにプライベートになります。その例を梶井基次郎や芥川龍之介の作品に見たわけですが、彼らの描いた檸檬や蜜柑という事物は、明らかに和歌で詠まれてきた花鳥風月や雪月花とは違います。それは古典的なヨーロッパ絵画の静物画と、印象派の画家たちの静物画くらい違っています。たとえばセザンヌの描く林檎は、他の誰の林檎とも違っている。まさに梶井基次郎の檸檬や芥川龍之介の蜜柑と同じように、セザンヌだけの林檎です。

 彼らの作品を見ていると、事物に内包されているものは、それを見たり触れたり味わったりする人によって少しずつ違うということがわかります。この違いを極大化すると、宮沢賢治のオノマトペ(擬音)になる気がします。

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