自分より歳がずっと上の人に出会い、親しくさせてもらうことは、僕にとっては珍しいことでも苦手なことでもない。
三人兄弟の末っ子として、福岡の糸島という田舎に生まれた僕は、幼い頃から2人の兄の友達と遊ぶことが多く、物怖じすることなく、どこにでもくっついて回るような子供だった。
実家に帰ると今も母がよく話すのが、まだ補助輪の取れていない自転車で、兄の友達グループを追っかけ、下り坂のカーブを曲がり切れず目の前の川に自転車ごと転落してしまった、という事故のこと。
幸いにも水量は少なく溺れることはなかったが、川端の石で頭を打ち流血、数針縫う怪我をした。
母は近所の人から、僕が川で頭から血を流しているとの報せを聞いて飛び上がってその川に走ったらしい。
翌日、母はその川の様子を見に行った。
その日は、小さな子供を飲み込むには充分過ぎるほどの水が流れていたそうだ。
近所の人に聞いてみると、昨日は、たまたま上流で川の水が堰き止められていたらしい。
「もし1日ズレとったら、アンタ今おらんよ」
といつも言われる。
以上が、僕の3歳の誕生日のエピソード。
ちょうど3歳になった日に人生終了しなかった僕は、実家で同居しているおばあちゃんの部屋に遊びにいっては、カセットテープから流れる音楽に合わせて日本舞踊を一緒に踊ったりした記憶がある。
中学まで習っていた剣道の先生は近所のお寺の和尚さんで、お寺に忍び込んで色々イタズラもしたが、ずいぶん可愛がってもらった。
高校は200年以上の歴史がある伝統高で、縦の繋がりがとても深く、卒業してからのOB・OGの熱がとにかく凄い。最初に起業した時には、高校のバスケ部OBの税理士に破格でお世話になった。今も、高校の先輩が経営する会社との仕事が継続していたりする。
東京での大学時代は、福岡出身者の男子寮に入った。そこでは様々な年間行事があり、年に何度も、70代、ときには80代のOBと時間を過ごした。OBになって15年が経つ今でも、極力行事には関わっている。
こうしてみると、社会に出るまで、比較的、歳がずっと上の人との関わりが多いように思う。
20代、30代と社会人生活をしてきて、仕事上の関係含め、歳が離れた人とのコミュニケーションは日常茶飯事だ。
中島みゆきの「糸」の歌詞ではないけど、縦と横の交差するところに自分がいる、という意識はずっと持っているように思う。
年齢の高低が縦軸、直接会ったり連絡したりする人の繋がりが横軸。
自分を中心に置いて、この縦軸、横軸を意識しながら、同年代で同じような関心がある人達とばかりいないか、普段の自分とは年齢・関心事の距離が遠いコミュニティにあえて入ってみようか、というようなことをやってきた。
幼少期から、そんな世代間意識を持っていたので、今がまさに「自分たちの番」という感覚がある。
素晴らしい先輩達の背中を見つつ、自分たちの世代として、どうバトンを受け取り、前進させ、いかに次の世代へ渡すか。
そんなことを大学時代にうっすらと考え始めていた。
これから社会に出て自分たちの番になったら、何をやるにしてもインターネットの知識や、個で人生をコントロールする力が確実に必要になると感じていた。
そんな僕にとって、周りの学生が就職活動を進める中、「起業する」という選択は自然な流れだった。