『変身』という小説を読んでいると、どうしてもアウシュビッツのことに連想がいく。カフカは1924年に亡くなる。そのころからヒトラーとナチ党がしだいに勢力をもってくる。ヒトラー内閣の成立が1933年の1月で、同じ年の3月にはダッハウに最初の強制収容所が作られる。そして後に「ホロコースト」や「ショアー」と呼ばれることになるナチ・ドイツによるユダヤ人の大虐殺がはじまる。ナチ時代にドイツが殺害したユダヤ人は、ヨーロッパ全土で600万人近くになると言われる。ポーランドだけで300万人のユダヤ人が殺された。ソ連でも100万人ほどが殺されている。
まさに『変身』という物語のなかで起こったのと、同じことが起こったと言えるのではないだろうか。それまでポーランドやドイツやフランスで普通の市民として生活していた人たちが、ある日「ユダヤ人」として可視化される。「ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変わっているのを発見した」のと同じことが、一人ひとりのユダヤ人に起こったのである。
たとえばフランスではヴィシー政権が、フランス国籍を持っていたユダヤ系の人たちからまず国籍を剥奪し、その上でナチスに協力してユダヤ人たちを捕らえ、彼らを絶滅収容所へ送ることに協力した。何年か前に起こったことも当時の状況と似ている。パリでのテロをきっかけに、それまで普通の市民として生活していたイスラム系移民たちが「イスラム教徒」として可視化される。彼らを見る人たちの眼差しが変容していく。それによって彼ら自身も変貌していく。差別され、追い詰められて、たとえばISのジハードの戦士へと変身を遂げる。
過去に現実に起こったこと、現在も現実に起こっていることを通してカフカの『変身』という作品を読むと、「本当らしさ」ということを、あらためて考えさせられる。「本当らしさ」ってなんだろう? 現実とは本来、不条理なもの不合理なもの、つまり「本当らしくないもの」かもしれない。本当らしいものの下には、本当らしいものよりも、もっと本当らしいものが横たわっている。フィクションは「本当らしさ」のベールを剥ぎ取り、「本当らしさ」の下に隠れた不条理で不合理な現実を露出させることでもあるだろう。たとえば一人の男を虫に変身させる、そこに視点を固定して物語を動かすことで、より剥き出しの現実があらわれてくる。そうした現実は「本当らしさ」の下に、無邪気にゴロっと、それこそ虫のように転がっているのかもしれない。
人が虫に変身するなんて、本当らしさから言えば、まるで本当らしくない。馬鹿げている。しかし「そんなバカな」と思って読み進むうちに、「そんなバカな」ことが読者一人ひとりに跳ね返ってくる。ぼくたち一人ひとりが、自分のなかにグレーゴルやグレーテや両親を発見することになる。それは『変身』という作品が書かれなければ、ついに発見されずに終わったことかもしれない。過去の人間が見なかったこと、言わなかったこと。それまで未知だったことを発見し、認識すること。それも小説の重要な働きだろうと思う。
〈了〉