つぎにカフカの『変身』を見てみよう。この作品が依拠している現実のレベルは、ぼくたちがよく知っているものだ。たしかに時代は20世紀のはじめ、場所は中央ヨーロッパのプラハだから、時代も場所も、いまぼくたちがいるところからは隔たっているけれど、物語の背景となっている現実に新奇なところはない。誰もが知っているものと言っていいだろう。
両親は中産階級で、主人公のグレーゴル・ザムザは年中旅をしているセールスマン、妹が一人と使用人が一人いる。彼らは通りに面したアパートに住んでいる。父親には借金があり、その返済のためにグレーゴルはいまの仕事をつづけている。これが『変身』という小説の舞台設定だ。とくに不可解なところはないよね。ところが物語は、いかにも不可解なはじまり方をする。
ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変わっているのを発見した。彼は鎧のように堅い背を下にして、あおむけに横たわっていた。頭をすこし持ちあげると、アーチのようにふくらんだ褐色の腹が見える。腹の上には横に幾本かの筋がついていて、筋の部分はくぼんでいる。腹のふくらんでいるところにかかっている布団はいまにもずり落ちそうになっていた。たくさんの足が彼の目の前に頼りなげにぴくぴく動いていた。胴体の大きさにくらべて、足はひどく細かった。(フランツ・カフカ『変身』高橋義孝訳)
物語の舞台、設定されている現実レベルは、ぼくたちが生きている現実と同じなのに、そこで起こることは、ある朝起きると男は巨大な虫になっていたという非現実的なものだ。この現実と非現実の乖離と接近が、『変身』という作品をすぐれたフィクションにしていると言える。作者の視点は、冒頭の非現実的な出来事に固定されている。つまり可視的なものとして読者に提示される、主人公の虫への変身だ。その視点は最後まで揺るがない。固定された視点のなかで、物語の進行とともに「変身」が多様化し、深化していく。
主人公のグレーゴルについて言うと、最初の変身は身体的なものだ。やがて消化器官が虫のものに変化していく。そのため以前は好きだった食べ物を受け付けなくなり、いかにも虫が好みそうなものをガツガツと食べるようになる。つぎに感覚が虫化していって、暗いところや狭い寝椅子の下などを居心地いいと感じるようになる。こんなふうにグレーゴルの「変身」は無慈悲に進行していく。にもかかわらず、彼の心は人間のままだ。グレーゴルは最後まで善良な人格を保ちつづけ、妹のことを思いやったり、どうすれば家族を救えるだろうと思い悩んだりする。また妹の弾くヴァイオリンに魅了されるといった、繊細な心を持ちつづける。そして虫の身体に人間の心を宿したまま寂しく死んでいく。以上がグレーゴルに起こることだ。
つぎにグレーゴルの家族に起こることを見てみよう。彼は両親と妹と四人で暮らしている。虫になったグレーゴルの面倒をみているのは妹だが、彼女は物語の進行とともにドラマチックに変貌していく。兄のことを最初に「虫」として見るようになるのか、このグレーテという妹なんだ。日常の世話をしているだけに、虫に変身してしまった兄を、当然のごとく虫として扱うようになる。グレーゴルのなかに残っている人間らしい心には目を向けず、ただ虫の利便性を考えて部屋の家具を動かしたりする。そういう思慮の浅い女性として描かれている。
父親は虫になった息子にたいして、どんどん残忍になっていく。ステッキで部屋のなかへ追い返したり、リンゴを投げつけてグレーゴルに致命的な傷を負わせたり、もはや父親というよりも横暴な官僚や看守といった感じだ。また一度は隠居していたのが、息子が働けないとなると自分が頑張らなきゃということで、張り切って再就職したりする。つまり弱い父親から強い父親へ変貌していくわけだな。母親は最後まで辛うじて母親らしいところを見せるけど、なんせ気が弱くて息子の力になれない。 このようにグレーゴルの変身とともに、妹は妹でなくなり、父親は父親でなくなるというふうに、彼の家族も人間から非人間的な存在へと変わっていく。そこが『変身』という小説の底知れぬ恐ろしさだと思うんだ。物語のクライマックスと言っていい箇所を見てみよう。
「ねえ、お父さん、お母さん」妹はこう言って、話の糸口として手でテーブルを打った。「もう潮時だわ。あなたがたがおわかりにならなくったって、あたしにはわかるわ。あたし、このけだものの前でお兄さんの名なんか口にしたくないの。ですからただこう言うの、あたしたちはこれを振り離す三段をつけなくっちゃだめです。これの面倒を見て、これを我慢するためには、人間としてでいるかぎりのことをやってきたじゃないの。だれもこれっぽっちもあたしたちをそのことで非難できないと思うわ。ぜったいに、よ」
この妹の台詞によってグレーゴルの変身が完了したと言える。妹にとって兄は、兄でないだけではなく人間でさえない。「これ」と言っているよね。すでに命あるものとして見ていないわけだ。かつての兄を「物」として扱おうとしている。