ヒガシユウジのまるごとデザイン

クリエイティブとイノベーティブ

僕らがつつがなく生活を送れているのは、常識という社会のルールに守られているから今日も無事に過ごすことができている。でも、この常識ってやつはクリエーターにとってはちと厄介なものの一つ。というか新しい何かを生み出さないといけない職業の人にとっては鬱陶しいやつに違いない。

モニターを前にして新しい何かを産み出したいと思って一本の線を引いた時、新しい企画を思いついた時、果たしてその続きのステップを踏むことができるだろうか?
知らず知らずに「これって大丈夫?」「クライアントにわかんねーだろーな」なんて言葉が頭に浮かび、こんな事をする必要はないかも。自分の守備範囲でない。そう思ってしらず知らず自分の周りに分厚い見えない壁を作っていないだろうか?

イノベーションだとかベンチャーだとか言ってるくせに、ついつい世の中に流されて、楽したいという思いが僕の中にあるのも情けないが、今の時代、既存のやつはぶっ壊すぐらいの勢いでなくっちゃ先に進まない気もする。つまり頭のなかにある常識の足枷手枷 をはずしてみる。とてもすっきりする。 このような常識と言うのは所詮、既得権を持った、誰かが作った物だ。その誰かの都合で作られたものだ。団体も、なんとかと言う賞も、その人たちの利益を守るためのものだ。

常識が邪魔をしている

テクノロジーと時間はすごい速さで、今僕たちの世界を動かしている。いろんな枠組みは崩壊し繋がりを求めている。しかし、常識という心の鍵がそれを邪魔している。常識は時の権力者の都合で作られた物だ。
時代が欲しがっているわけではない。

僕らは芸術とデザインはまるで違う物だと教えられている。芸術は私的な欲求から生まれた創造行為であって、デザインは企業の商品を売るマーケティングツールだと。

芸術は一品性もしくは、少数限定で、デザインは多量無限性であると。芸術はスタープレーヤーの単独制作で、デザインはいろんなチームが関わる事による制作活動だと。  
果たして、今の時間の流れの中で間違いなくyesと言えるのか?

もし、「芸術とデザインはある部分において溶け合い融合を始めている。」と言おうものなら先生と言われるその権力者からバカにされるに違いない。周りの人々にマイノリティーだと言われるかもしれない。
人は知らず知らずに、常識は正しいと考える。

世界はデジタルによって大きく変化し、それに伴い人の生活や考え方も変化している。なのにそこにサービスや商品を送り出す仕事の領域は変わらないというのは実に不思議だ。
「そう言うが現実を見る必要がある。実はみんな変わりたがらない。新しいものは必要ない。新しそうなものが必要なんだ」そう言われそうだけどでも、そんな常識をなんとか操作しながら延命を続けるようなやり方に付き合っていてはブレイクスルーなんてできるわけもない。時は止まって安楽椅子を用意してくれたりはしない。

クリエイティブとはまず常識と戦うこと。そうすると色んなものが見えてくるに違いない。

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