小説家片山恭一の文章の書き方

43 小説という面倒なもの

 ところでぼくたちは、どうして小説という面倒なものを書こうとするのでしょう。自分をみつめ、自分について書くだけなら、小説でなくてもいいはずです。たとえば日記や自分史みたいなものでもいいかもしれない。カフカの日記はそのままで充分に面白いものですが、日記だけでは済まなかったから、『変身』などのフィクションを書いたのでしょう。このように小説やフィクションでないと片付かない問題が、やはりあるような気がします。

 ぼくは『世界の中心で、愛をさけぶ』をはじめとして、いわゆる恋愛小説と呼ばれるものを幾つも書いてきました。誰かを好きになるとか、決定的な出会いを果たすといったことを、いまだに書いているわけです。ぼくも63歳になり、もう少し年相応のことを書いたほうがいいのかもしれませんが、あいかわらず青臭いことを書いています。

 なぜ還暦を過ぎたおやじが恋愛小説じみたものを書きつづけているのか。これには自分なりの理由があります。それは恋愛としてあらわれる情動が、人間のなかにある最善にして、最上のものだと思っているからです。無暗に誰かを好きになって、その人と結婚して家族をなす。子どもなんか授かって、その子どもとともに自分も成長していく。これ以上に善きもの、悦ばしいものが、人の一生のなかにあるとは思えません。

 この善きもの、悦ばしきものの根源には、それまで見ず知らずだった赤の他人を、一瞬にして自分以上に好きになってしまうという摩訶不思議な情動があるのです。この不思議な心映えが、ヒトを人間にしたとぼくは思っています。これがあるかぎり、テロや戦乱にまみれながらも、人類はまだしばらくは滅びずにやっていけるのではないでしょうか

 考えても見てください。バイデンの娘とプーチンの息子が、クイーン・エリザベスみたいな豪華客船の上で出会う。ラウンジかレストランで「ハーイ」とか言って仲良くなってしまう。ありないことではありません。国籍の違う男性なり女性なりを一目見たときから好きになってしまうことは、誰の身にも起こり得ます。そうして仲良くなった二人が、「おとうさん、わたしたち結婚します」と言えば、その瞬間からバイデンとプーチンは親戚になってしまいます。

 自分の娘や息子、孫たちが暮らす国をミサイルや核兵器で攻撃しようと思うでしょうか? 北朝鮮だって建前は専守防衛です。どの国も自国の安全のために武器を持つ、自己防衛のためにどんどん軍備を過剰にしていく。「おとうさん、わたしたち結婚します」に勝る安全保障はありません。人を好きになるという情動は、いかなる軍事力をも凌ぐのです。

 この善きものを、言葉でしっかりとらえたい。そのために小説というフィクションを書く必要があるのです。現実にぼくたちが体験する恋愛は、いわば瞬間芸のようなもので、ぱっと燃え上がって過ぎてしまいます。定着しないし持続しない。人間のなかにある至上のもの、この上なく善きものがあらわれても、それは一瞬のうちに過ぎて、あとは日常の反復のなかで見えなくなってしまう。これを言葉として確かなものにするために、小説というフィクションが必要だと思うのです。

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