登場人物の名前の話をもう少しつづけます。カフカの『変身』の主人公は、ご承知のようにグレーゴル・ザムザです。独身のサラリーマンで両親と妹の家族四人、それに女中を一人を置いて、わりと広いアパートに住んでいます。仕事は布地のセールスみたいですね。
つぎの『審判』になると、主人公の名前はヨーゼフ・Kと、姓のほうはイニシャルになります。30歳で独身、銀行員です。ある朝、目が覚めると虫に変身したザムザも不条理ですが、身に覚えがない罪でいきなり逮捕され、最後は犬のように処刑されるヨーゼフ・Kに起こったことも不条理そのものです。某国あたりでは実際にありそうなことですけどね。
未完にして最後の小説『城』では、とうとう主人公の名前はKだけになります。言うまでもなくKはカフカのイニシャルですから、作者の分身と考えることもできるでしょう。グレーグルにしてもヨーゼフ・Kにしてもカフカの作品の主人公は、みんな作者である彼自身であるかのように読めます。
こんなふうに主人公の名前が後になるほど記号化し、匿名性を帯びていくのは面白いですね。いったいどういう意味をもつんだろう? ぼくはふと落語のことを思い浮かべました。古典落語の登場人物というのは、主人公はたいてい熊さんと八っつあん。あとは大家さんに横町のご隠居に、ちょっと抜けたのが与太郎で、面倒見のいいのが甚兵衛さんといった具合です。やはりほとんど記号で、匿名性が高いわけです。もちろん女性も数多く登場しますが、たいてい長屋のおかみさんとか、隠居の妾とか吉原のお職とか品川の女で間に合ってしまう。
これは落語が話芸であることによる工夫だと思うんです。ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフやソフィア・セミョーノヴナ・マルメラードワでは、聴き手はとてもおぼえられないし、噺家だって長ったらしい名前を何度も繰り返すわけにはいかない。それじゃあ寿限無になっちゃいます。だから簡潔に熊さん、八っつん、若旦那に番頭さんくらいでいいのしょう。落語家というのは扇子と手拭だけで、すべてを表現しなくちゃならないんですからね。
あってないような名前だから、噺家も聴き手もストーリーに集中できる。名前は類型的だけれど、話の中身は多種多様です。人情噺から滑稽噺、狸や狐に化かされる噺まである。同じ人情噺といっても痴情のもつれだったり、人助けだったり夫婦喧嘩だったり仇討ちだったり、火事だったり、富くじに当たったり……といったストーリーのなかに人の思いやりや慈悲や恩義がある。恋や嫉妬や憎悪や怒りや恨みや殺意がある。要するに悲喜こもごもの世態人情や人間模様が、笑いを軸として描き出されていくわけです。
こうなると俄然、落語はカフカの小説に近づきます。カフカの小説にも笑いの要素は多い。マックス・ブロートたちの文芸サークルでカフカが自作を朗読すると、聴いていた友人たちは声をあげて笑ったという逸話が残されているくらいです。たしかに『田舎医者』や『断食芸人』に収められた短編には、あちこちに黒い笑いがごろりと転がっていますし、不条理を描いて後世に大きな影響を与えたとされる『変身』や『審判』や『城』にしても、目先を変えれば滑稽なシーンは意外と多く見つかります。
笑いと不条理は矛盾しない、というよりも裏腹なものなのでしょう。そして滑稽を演じ、不条理を一身に背負うのは、ぼくやあなたを含む普通の人たちです。誰にでもあてはまることだから、人物名も記号化した、匿名性の高いもののほうがいいのでしょう。カフカの小説や落語のように。