ロシア文学の登場人物の名前っておぼえにくいですよね。『戦争と平和』に出てくる宮廷の女官の名前はアンナ・パーヴロヴナ・シェーレル、アンナ・シェーレルやアンネット・シェーレルとつづめても焼け石に水です。こんな具合だから、主要登場人物の一覧表を参照しながら読まないと誰が誰だかわからなくなってしまう。ドストエフスキーもやってくれます。『罪と罰』の二人はロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフとソフィア・セミョーノヴナ・マルメラードワです。まあ通称はラスコーリニコフとソーニャだから、こちらはなんとかなります。
こんなふうに登場人物に面倒くさい名前をつけるのは、作品の背景が実在の世界だからです。時代も場所もかなりはっきりしている。『罪と罰』は19世紀中ごろ(おそらく1860年代)のペテルブルグが舞台です。『戦争と平和』が1805年のアウステルリッツの戦いと、1812年のナポレオンのロシア遠征という歴史的事実を背景にしていることはよく知られています。
カミュの『ペスト』は架空の物語ですが、舞台はアルジェリアのオランというふうにはっきりしています。ベルナール・リウーという医師の手記という設定ですから、いわゆる本当のようなウソのかたちで話は進みます。登場人物の名前も、たとえばパリからやって来た新聞記者はレイモン・ランベールなんて実在しそうな名前が採用されています。
夏目漱石の小説では、男も女も「三四郎」「代助」「三千代」「宗助」「お米」という具合に簡潔に済ませてしまうことが多いのですが、代助は「長井代助」で三千代は「平岡三千代」と一応戸籍に載っていそうな名前になっています。ところが同じ漱石でも『猫』になると、登場人物の名前はにわかに不穏なものになってきます。なにしろ「吾輩」の飼い主は珍野苦沙弥で、友人の美学者は迷亭ですからね。他にも水島寒月や越智東風や八木独仙といった不思議な名前の人物が出てきます。これは言うまでもなく、作品が猫を語り手とした滑稽文学の体裁をとっているからです。
ぼくがいま『天理時報』という新聞に連載している小説は、ピノという犬を語り手としていますから、主人公の名前はカンで、その友だちがツツ、両親はトトとハハといった具合に、虚構性を明示するようなものにしています。一方、『世界の中心で、愛をさけぶ』という小説は、四国あたりの地方都市を舞台にした高校生たちの物語なので、人物名も松本朔太郎に廣瀬亜紀と普通のものです。ただ二人のあいだでは「サクちゃん」「アキ」と呼ばせて、少しメルヘンやファンタジーの色付けをしています。
このように登場人物の名前は、作品世界に相応したものになっています。作品の舞台が実在する(あるいは実在しそうな)場所で、現実として起こりうることを扱っていれば、登場人物の名前も実際にありそうなものにすべきでしょう。しかし『銀河鉄道の夜』みたいに、架空の場所で起こる虚構の物語の場合は、ジョバンニやカンパネルラといった同胞には見当たらない名前にすると、秀逸な演出効果が生まれます。小説を読んでそんなことを考えてみるのも面白いですね。