神や死など実証できない面倒なことについては考えない、という人がいます。亡くなった立花隆さんなども、「形而上学については一切認めない」みたいな発言をされていました。まあ、ご本人の勝手ですから、どうでもいいのですが、ぼくはニヒリズムそのものという気がします。生きていることに色気がありません。面倒なこと、形而上学的なことを考える過程こそが面白いのに。
でも案外多いのかもしれませんね。面倒なことについては考えないとか、実在が証明されないものは認めないとかいう人は。考えるよりも先に調べちゃう人とか、検索だけで済ましちゃう人は、これからどんどん増えてくる気がします。でも死とか愛とか、ぼくたちが文学でテーマにするようなことって、検索してどうなるものでもありません。やっぱり粘り強く考えるしかない、面倒で厄介なことです。そういう面倒で厄介なことに、立ち向かうと言ってはなんですが、好んで近づいていくようなところが文学にはあります。
面倒なことについては考えないとか、実在が証明されないものは認めないという態度を貫くと、たとえば病気なんかはどうなるんでしょうかね? がんという面倒な病気については考えない。心身相関なんていう実在が証明されないものは認めない、ということになれば、これはもうがんを「悪」とみなしてスパッと退治する、切ったり叩いたりするしかなくなると思うんです。
ウイルスも同じです。悪者とみなすから、緊張や不安が生まれる。今回のコロナ禍の本質にあるのは、そういうことではないでしょうか。感染症学を含み西洋医学の考え方そのものが、もう根本的に間違っているのだと思います。現代医学では「病原体(ウイルス)と接触することで感染が起こり、病気を発症する」と考えます。なぜならウイルス=悪だからです。
一人の人間を目に見えるところだけで判断すると、善か悪か、敵か味方かに分類されてしまいます。所得多寡やAIが得意な個人スコアみたいなものになってしまうでしょう。裁判の「有罪」という考え方も、実在が証明できるということが前提になっていますよね。ドストエフスキーの『罪と罰』を罪の実在というところでだけ見てしまうと、ラスコーリニコフは二人の女性を殺した犯罪者ということで終わってしまいます。フローベールのボヴァリー夫人やトルストイのアンナ・カレーニナは、姦通を犯したことによって有罪です。D・H・ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』やヘンリー・ミラーの『北回帰線』は赤裸々な性が可視化されているから猥褻です。
つまり目に見えるものがけに重きをおくと、文学ははじまらないってことです。文学ははじまらずに、人間は数字やデータになってしまう。これがいま急速に、劇的に起こっていることではないでしょうか。人間が数字やデータになってしまわないためにも、ぼくたちには物語が必要だと思います。