小説家片山恭一の文章の書き方

37 猫に寄り道

 最近、久しぶりに夏目漱石の『吾輩は猫である』を読み返しました。じつに面白かった。今回はその話を書いてみようと思います。

 『草枕』もそうですが、『猫』も他に類を見ないような作品ですね。きれいにジャンル分けできない。当時の呼び方でいえば写生文ということになるのでしょうか。

 もともと写生の概念は、俳句・短歌を革新しようとする試みのなかで正岡子規が提唱したものです。それが言文一致体を推進する動きと共鳴して小説にも波及しました。子規自身は写生文について、「言葉を飾るべからず、誇張を加ふべからず、只ありのまま見るたままに其事物を模写するを可とす」(『叙事文』明治33)と述べています。

 子規は明治35年に没してしまいますが、彼と親交のあった漱石が影響を受けて写生文に手を染めたことは充分に考えられます。そもそも『猫』が発表されたのは、子規の没後に高浜虚子が主宰した雑誌「ホトトギス」でした(明治38~39)。漱石自身は『猫』を一回の読みきりにするつもりだったようですが、非常に評判がいいので、気を良くして虚子に勧められるまま十一回まで書いてしまいます。

 漱石全集の別冊には談話が収録されていて、そこで自作についてこんなことを言っています。「妙なもので、書いてしまった当座は、すっかり胸中の文字を吐き出してしまって、もうこのつぎに何も書くようなことはないと思うのですが、さて十日経ち二十日経ってみると日々の出来事を観察して、また新たに書きたいような感想も湧いてくる。材料も集められる。こんなふうですから『猫』など書こうと思えばいくらでも長くつづけられます。」(『文藝界』明治39)恐れ入りました、と言うしかありあせん。

 『猫』の面白さが、全編に溢れかえる過激なまでの諧謔味にあることは誰もが認めるところです。ただその諧謔は、ときにものすごく高級なんですね。もちろん誰にでもわかるユーモアもふんだんに盛り込まれているのですが、そのなかに「こんなシャレ、当時、どのくらいの人が理解できたんだろう?」と思えるようなものが紛れ込んでいるのです。たとえば最初のほうで美学者の迷亭がこんなことを言います。「先日、ある学生に、ニコラス・ニックルベーがギボンに忠告して彼の一世の大著述を仏語で書くのをやめにして英語で出版させたと言ったら、その学生は日本文学会の演説会で真面目にその話を繰り返した。傍聴者は約百名ばかりであったが、皆熱心に傾聴していた。」

 このシャレのおかしさがわかるには、相当な教養が必要だと思います。ギボンの「大著述」が『ローマ帝国滅亡史』であることは、ぼくでもなんとかわかりますが、「ニコラス・ニックルベー」が何者なのかわからない。こういうとき岩波の全集はありがたいもので、注解にちゃんとチャールズ・ディケンズの小説の主人公と書いてあります。つまり作中の架空人物が実在の歴史家に忠告したわけで、これはもう高級なナンセンスです。ぼくは落語『火焔太鼓』のなかの小野小町が鎮西八郎為朝に出した手紙っていう、古今亭志ん生のくすぐりを思い浮かべました。ちなみに漱石の落語好きは有名ですね。寄席にもずいぶん通っていたようです。

 それにしても、こういう高級な諧謔がちりばめられた『猫』のような作品を、「書こうと思えばいくらでも長くつづけられます」と言うのですから、ぼくたちとは素養から何からまったく違うとしか言いようがありません。そんなことに呆れたり感心したりしながら『猫』を読むのは、なかなかに楽しい作業です。この小説の時代を超えた新しさを再認識したものでした。

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