小説家片山恭一の文章の書き方

36 神話的次元

 ヘミングウェイの『老人と海』では、84日間も一匹も魚が釣れなくて、すっかりサラオ(スペイン語で最悪の事態を意味する)になってしまった老人・サンチャゴが、待望の獲物であるカジキマグロと親密に言葉を交わします。魚は水中にいて、老人はまだ一度もその姿を目にしていません。しかも釣り上げて殺さなければならない獲物です。そんな魚を相手に、老人は三日三晩にわたり兄弟のように言葉を交わすのです。

 これは狩猟民が獲物となる動物たちと取り結ぶ関係とよく似ています。神話学者のジョーゼフ・キャンベルによると、生命体の本質は他のものを殺して食べるということす。生命体であるかぎり、動物も虫もこの摂理を免れないのですが、人間だけがなぜかそれを罪悪感や後ろめたさとして意識化しました。マルクスの言い方を借りれば、人間は母体である自然から自らを疎外したわけです。そのため両者のあだに亀裂が生じ、人間は自然から離脱して生きざるを得なくなった。

 この亀裂や乖離を修復するものが神話ということになるでしょう。現に多くの神話は人間が自然と調和して生きることを教えています。狩猟民の神話であれば、自然が恒久的に獲物を供与してくれるために、動物たちをいかに扱えばいいのかを教えます。犠牲となった動物たちの霊を慰め、彼らの命を奪うことを償い、和解の儀式を執り行うことの大切さを教えるのです。農耕民の場合も同様です。神話のなかで大地は、しばしば実りをもたらす子宮として語られます。人もまた大地という子宮から生まれた。その神秘に心を開き、大地と自然を敬うことを神話は促します。

 宮沢賢治の童話には、他のものを殺して食べるという生命体の悲しみが通奏低音のように流れています。そして命を奪われる動物や、食物連鎖の下位にある植物を主人公とした童話が数多く書かれることになりました。彼は生きとし生ける生命体を、化石となったものまで含めて「遠いともだち」と呼んだくらいです。

 現代の世界に、神話的な力を取り戻すのは文学者を含めた芸術家の仕事かもしれません。しかしぼくたちが日々を生きることのなかにも、神話的次元はかならず含まれています。たとえば花を見て、小鳥の声を聞いて美しいと感じる。クモの巣みたいなものにも美しさを見いだす。この「美しい」は神話的次元からやって来るように思えます。

 ぼくたちは「美しい」と感じることで世界を味わいます。そして「美しい」と感じられるものがたくさんあるほど、世界は豊かになっていきます。人が人間らしく生きるためには、神話的次元が不可欠なのかもしれません。その神話的次元を開示してみせるのも、文学の大切な仕事だと思います。

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