小説家片山恭一の文章の書き方

35 神話の力

 世界各地の神話の比較研究に大きな業績を残したジョーゼフ・キャンベルは、神話とは人間生活の精神的な可能性を探るかぎだと述べています(『神話の力』)。たとえば結婚の意味とはなんでしょう? 人間が動物ならただ生殖だけを行えばいいはずですよね。子孫を残すこと、生物学的な種の保存にとって、ぼくたちが採用している「結婚」という様式は明らかに余計なものです。

 この過剰さの意味を教えてくれるのが神話だ、とキャンベルは言います。神話のなかで扱われる結婚は、分離されていた二者の再統一という意味をもっています。もともとあなたがたは一体だった。この現生で人は二つに分かたれているけれど、精神的にはやはり一体だと認識することが結婚の本質である、ということですね。

 ぼくたちが何気なくやっていることの多くには、神話的次元が存在します。たとえば食べる行為ひとつをとってみても、他のものを殺して食べるということですから、犠牲とか償いとか和解といった神話的な要素が入っているはずです。粗視化のレベルを細やかにしていけば、パンを食べることのなかにも「他のものを殺して食べる」という契機が含まれています。誰かが食べるべきパンを奪って食べているとか、現にぼくたちはそうやって生きているのではないでしょうか? それは「他のものを殺して食べる」ことと同じですよね。だからパンを食べることのなかにも、ちゃんと犠牲や償いや和解といった神話的な要素が入っているのです。

 現在の世界では、神話的なものを経済的なものに置き換えて、経済的援助とか国際協力みたいなかたちにしています。こうして神話的次元は見えにくくなっていきます。食べることにしても、スーパーでパック入りの精肉を買ってくるとか、調理されたフライドチキンやハンバーガーを食べるといった日常のなかで、神話的次元はマスキングされている。今後はフードテックみたいな技術が実用化されて、鶏・豚・牛などの動物の肉を使わずに、肉の触感や風味を再現した代用肉みたいなものが流通するようになると、ますます神話性は希薄になっていくと思われます。病院で管理される人の生死などは、すでにそうなっていますよね。

 ぼくたちが「生きている」という実感を得るためには、精神的なものが賦活される必要があります。精神性なんていうと大仰だけど、ふと空を見上げて浮かんでいる雲に心を持っていかれるとか、道端の可憐な野草に気持ちが透明になっていくとか、「いま自分はここにいて生を味わっている」という実感を得るのは、かならず精神的なものが活性化されているときだと思います。こうした働きをキャンベルがいう神話的次元が長く担ってきました。

 これからデジタル化が進んで、ますます神話的次元が希薄になっていきます。いまはまだ裁判官なども黒い法服を着て出廷しますよね。こうして法による裁きを儀式化し、神話化しているわけですけれど、いずれAIのアルゴリズムが膨大な判例を参照して裁定を下すようになるかもしれません。ドローンやロボットが戦争を請け負うようになれば、トルストイが描いたような儀式化された戦争は姿を消すでしょう。

 悪いことではないかもしれませんが、どうしても人が生きることの実感が希薄になることは避けられないと思います。どうやって生の実感を取り戻すか? 日々の物語を紡ぐことは、なお有効な手段ではないかと考えています。そこに文学の可能性があるような気がします。

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