小説家片山恭一の文章の書き方

33 神話と小説

 ちょっとしたスナップ写真などはともかく、一つの風景を丹念に撮るという行為は、対象となる風景に深く入り込み、理解し、味わうことでもあるでしょう。「自分のものにする」という言い方をしてもいいかもしれません。絵画などにも同じことが言えると思います。

 世界中に残されている神話の多くは、やはり自分たちが生きている世界を理解し、自分たちが何者であるかを知るための手段だったように思われます。宇宙を問い、人間を問う、そのために先祖たちは物語の力を必要としたのではないでしょうか。

 わが国の『古事記』などでも、最初に語られるのは天地開闢(天地創生)の物語です。それから国土が生まれ、天地自然を支配する神々の話が語られ、さらに天孫降臨して地上の物語がはじまる。現在、神話のかわりをなすものは科学でしょう。しかし最先端の宇宙物理学が物語る宇宙の誕生と、『古事記』などによる天地開闢と、どちらがすぐれているかはにわかには判定できない気がします。その時代の明晰さがあり、迷妄さもある、ということではないでしょうか。

 神話にくらべると、小説には時代に応じて多くの要素が入っていますが、土台にあるのは、やはり世界(宇宙)と人間への理解だと思います。たとえばドストエフスキーの作品を貫いているモチーフは、大きくとらえれば「神なき世界で人はいかに生きるか」ということでしょう。つまり「現行の世界を生きる自分たち」ということが大きな主題になっている。

 現在、ぼくたちが小説を書くことのなかにも、こうした主題は自ずと入ってきます。そのために「現行の世界」というものを、まず理解しなければならない。これが難しいんですね。ひとつは世界があまりにも複雑で、高度に専門的になっているからです。しかも変化のスピードが非常に速い。表層的な現象を追いかけるだけで精一杯という感じで、なかなか「いかに生きるか」にまでは言葉がたどり着けない。

 それでもやはり、「すべてがデジタル化されつつある世界で人間とは何か」といった問いは必要だろうと思います。AIが飛躍的な進歩を遂げることによって、ぼくたちが生きている世界の大部分は、デジタルツインとかメタバースといったものに置き換わろうとしています。そのなかで人が生きることの意味を問い直すことが、これからの文学の大きな仕事になるのではないでしょうか。

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