小説家片山恭一の文章の書き方

32 愛の可能性、芸術の可能性

 芸術の可能性は愛の可能性である、ということについてもう少し考えてみましょう。愛の可能性なんていうと、ずいぶん大仰ですが、親の子にたいする思いは、ひとことで言うと「かけがえのないわが子」ということでしょう。この「かけがえのない」ってところが、ぼくたちの人生のアルファでありオメガであると思うんです。

 フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスがこんなことを言っています。

 私の愛している他人がこの世界で私にとってはかけがえのないものであるということ、それが愛の原理です。恋愛に夢中になると、他人をかけがえのないものと思い込むから、というのではありません。誰かをかけがえのない人として思うという可能性があるからこそ、愛があるのです。(『暴力と聖性』内田樹訳)

 それまで見ず知らずだった赤の他人を「かけがえのない人」として思う、そういうことってありますよね。いつも引き合いに出す映画『タイタニック』のジャックとローズの場合がそうです。二人はイギリスのサウサンプトンからニューヨークへ向かう豪華客船の上でたまたま出会った。数日後には氷山にぶつかって船は沈んでしまいます。冷たい氷の海に浸かったジャックは命が尽きる直前、震える舌で「きみは生きろ」と言います。このときローズという一人の女性は、彼にとって「かけがえのない人」だったはずです。

 偶然に出会った二人の、たった数日間の恋の結末が「きみは生きろ」です。そんなにしょっちゅう起こることではないけれど、誰の人生にも起こりうることです。なぜなら「誰かをかけがえのない人として思うという可能性」が、誰のどんな生のなかにもそっと封入されているからです。

 しかも「かけがえのない人」となる赤の他人に、特別なところはありません。一人のローズが絶世の美女である必要はない。人の好みは十人十色とか、蓼食う虫も好き好きとか、要するに「なんでこの人?」が「かけがえのない人」となる可能性は充分あるわけです。というか、その人にとっての「かけがえのない人」は、他人から見ればだいたいが普通の人です。

 無数の彼や彼女たちのなかから、ただ一人のかけがえのない「あなた」を見出すのは、他ならぬ「この私」です。「この私」だけがなしえることと言っていいでしょう。こうなると「かけがえのない人」は創作であり創造です。ありきたりの彼や彼女は、「この人でなければ」という究極の差異にするのは、「この私」だからです。

 誰かを好きになる。その人と家族をなし、子どもたちと出会う。これは一握りの天才的な芸術家たちがやっていることと同じです。ドゥルーズが言うように、すぐれた音楽や詩が繰り返し演奏され、暗誦されるのは、他のものでは代替がきかない究極の差異だからでしょう。それと同じことを、ぼくたちは「出会い」というかたちで無意識にやっている。猫や犬やインコでも同じですよね。かけがえのない動物を失うからペットロスは起こるのでしょう。

 誰かと出会い、その人を好きになることは、特別な才能がなくても誰にでも可能なことです。この可能性は芸術の可能性と同じものです。すると誰もが等しく芸術への可能性に向かってひらかれていることになります。ぼくたちが喜怒哀楽のなかで生きていること自体が、もともと非常にアーティスティックなことであり、そのなかで音楽を作ったり、絵を描いたり、小説を書いたりしているんだろうと思います。

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