丸山泰武のぼくが福岡でフリーライターをやっているわけ

制 御 不 能

ライター28

 ぼくは院内にいるのが耐えられなかったのに加えて、病院でのリハビリテーションがよい結果をもたらすとは確信できなかったので、自由な時間ができるといちばん近くにあるショッピングモールまで、競歩のような早足で歩いた。片道30分弱くらいはあったが、体力をつければ何とか病気も乗り切れるのではないかと考えたわけだ。iPodで音楽を聴きながら、というと何とも呑気な散歩のような印象を持たれるかも知れないが、それはときどき、そしてかすかに聞こえてくることがある幻聴を遮断するためでもあった(そのころ鬱から軽度の“統合失調症”へと病名が変化していた)。目的地に到着すると、スターバックスのテラス席でアイスラテを飲み、ラッキーストライクで一服する。30分くらい暇をつぶしてから、再び病院に帰るというのがルーティーンになった。もちろん、そんなことをしても病状が改善するわけではない。何もしないよりはマシかもしれないけれど、ぼくの中で機能に障害が起きていたのは、フィジカルではなくメンタルのほうだったのだから。


 一体何度入院したのか……いまとなってはそれさえはっきり覚えていない。ただ退院するとにわかに体調が悪くなり、あの吐き気と昼夜逆転の生活が戻ってきた。もはや自分の力では制御不能の状態だった。


 なかでも辛かったのが、大分のある短大で非常勤講師の仕事をしていたころだ。前日に実家に戻り、翌日に車で学校に向かうのだが、例の吐き気が講義開始直前までぼくを苦しめた。編集制作についての授業だったが、よくもまあやれたものだといまでも思う。本当に心身ともに最悪の状態だったから、役に立つことなどろくに教えられなかった。当時の学生さんには本当に申し訳ないことをした。本当に。実家の両親にもずいぶんと心配をかけたと思う。ただ、ぼくが週に一度帰省するので、そのことは彼らにとっては楽しみだったのかもしれない。母はリウマチで身体が不自由だったが、週末にぼくが実家に帰るたびに、ぼくが好きな肴や料理を用意して待っていてくれた。父は酔って居間で寝ているぼくを夜中にも関わらず起こしにきてくれたものだ。そういうことを思い出すと、どうしてもっと親孝行できなかったのかと、いまでも後悔だけがこみ上げてくる。ただ、あのころは本当に生きていくのが辛く、自分のことで精一杯だった。もし、そんな両親の存在がなかったら、ぼくはおそらく早い時期に一線を越えていただろう。つまりこの世からは綺麗さっぱりいなくなっていたと思う。