丸山泰武のぼくが福岡でフリーライターをやっているわけ

偶然の寄り集まり

ライター23

 さて、ずいぶんと長い文章になってしまったが、ここまでがぼくがどんな動機で、何をきっかけにしてライターになったのかという話だ。何もここまで記しておく必要はなかったのかもしれないが、簡略にいえば、偶然が寄り集まっての結果がいまだ。最初は軽いアルバイトのつもりでこの道を歩き始め、それほど間をおかずに人員の都合で長い文章を書くトレーニングをすることになる。さらにP社が福岡から撤退するというので、職探しを試みるのだが、紹介されたのは、結局、A編集部で同業者だったわけだ。


そして、ぼくのライター人生は、いよいよここからが佳境となるのだが、利害関係者が一気に増えてしまうので、正直なところちょっと書きにくい。同じことを繰り返してしまうけれど、簡略にいえば、偶然が寄り集まっての結果がいまだ。ただ、あらすじなら書けるので、今回はそれに終始しようと思う。


 まずぼくがあたえられたのはAという雑誌の編集ではなく、タナベさんが言ったように月に2回発行されるFという機関紙の仕事だった。クライアントの広報室の中にデスクがあって、何だか最初は妙な感じがしたが、慣れてくると住めば都という感じで居心地はそれほど悪くなかった。機関紙の中身はあらかたクライアントが決めていたが、それをどう“料理”するのかは、ぼくら(機関紙の制作は2人でやっていた)に任されていた。ぼくは若さも手伝って、思いっきり以前のバックナンバーとは違う表現を試みたりもしたが、クライアントからは何も苦情は出なかった。その分、伸び伸びと仕事ができたから、これも実にありがたいことだった。


 そのうちタドコロさんに呼ばれてA編集部の仕事もときどき手伝うようになる。Aという雑誌は、編集長のタドコロさんが文章にもデザインにも相当のこだわりがあって、ぼくはそこでライター業はもちろんのこと、「編集者」としての鍛錬も積ませてもらうことになった。企画の立案からはじまり、取材もライティングも、ディレクションも、制作のすべての要素に携わることになったわけだが、この経験は大きかった。実はライターといっても、福岡では編集者のセンスも求められる。編集のことをわかっているのといないのとでは、ずいぶんと扱いも変わってくる。

 もちろん、A編集部は全員がH社からギャラをもらっていたから、広告のことも自然と学習することになった。A編集部に入って早々の頃、編集者の女の子から「丸山くんってコピーライターなんですか」なんていう質問を受けて、「いいえ、ただのライターです」とか、妙な受け答えをした記憶があるけれど、福岡では時にはコピーライター、つまり広告の文案も書かなければ、少なくともフリーでは生きていけない、と思う。そういう意味でも、いまの自分が武器として持っているものは、すべてこの頃に吸収したものだと言える。.