そのころP社の福岡事務所には、ワタナベさんとデザイナーの女の子3人、フジイさんとヤマダさんとカワハラさん、そしてぼくの5人がいた。そんなちいさな所帯にもかかわらず、デザイナー陣は2つに割れていて、フジイさんとヤマダさんはとても仲良しだったけれど、カワハラさんとはどうも友好的な関係は持てなかったようだ。理由はよくわからないが、まあ、ウマが合わないというやつではなかったのかと思う。女性だからということは言うべきではないかもしれないが、どこの世界に行ってもママある話だ、といまは思う。とにかく、何かとデリケートな部分があることだけは確かだ。
ところがおかしなことに、ワタナベさんが福岡を去るという話が出ると、フジイさんとヤマダさんは、まさに申し合わせたように、ほぼ同時期にP社を去っていった。「私、前々から飲食の仕事がしたかったんですよね」とフジイさんは辞める前、ぼくにそんな話をしてくれた。なんでデザイナーから飲食の仕事に転身するのだろうかとぼくは思ったけれど、もちろんそんなことは口には出さなかった。「で、博多駅前のわりと大きなレストランで働いている友達が“うちに来たら?”って誘ってくれて」「そうですか」。“きっとフジイさんならうまくやれますよ”なんてことも言わなかったけれど、フジイさんはどちらかというと、レストランよりも料亭みたいなところのほうが似合っているような気がした。ギャルソンエプロンよりも割烹着というイメージで。「がんばってくださいね」とだけぼくは言った。「丸山さんもね」。よく考えたら彼女はぼくよりも年下だったが、なんとなく姉御のような雰囲気を持った人だった。それ以降の彼女がどうなったのかはまったく知らない。
フジイさんはデザイナーからまったくちがう職業へと転職してしまったが、ヤマダさんはP社を辞めたあと、福岡ではかなり大きなデザイン事務所に入った。メガネをかけた小柄な人だったが、なかなかバイタリティーがあり気も利く人だった。年はぼくと同じだったはずだが、目上の人や得意先と話すとき、敬語をきちんと操っていたので、それだけでぼくは一目置いていた。「丸山さんはやっぱりライターをつづけるんでしょう」「はい、わりと気に入っているので」「ワタナベさんはいなくなっちゃうけど、がんばってくださいね」とヤマダさんはぼくに言った。「ええ、特集のことが心配ではあるんですけど、まあ、できる限りのことはするつもりです」「また、一緒に仕事ができるといいですね」「はい、楽しみにしています」。狭い、しかし福岡の業界はやはり狭い。なぜってこのとき話したことは、後に現実のこととなったからだ。約10年のときを隔てることにはなるが。
そんなこんなで、ふたりのデザイナーがいきなり会社から去ることになったのだが、結局、P社は人の補充はしなかった。デザイナーで支社長のウエキさん、デザイナーのカワハラさん、そしてライターのぼくを加えた3人体制で仕事をまわすということが決まり、人員の割にちょっと広すぎるけやき通りの事務所も、薬院という場所に移転することになった。