丸山泰武のぼくが福岡でフリーライターをやっているわけ

新人のライターは稼げない

ライター10

 P 社ではそのようにして、単純に文章を書くだけというよりは、編集ノウハウにもつながる仕事の仕方を覚えていった。もちろん、会社が編集プロダクションであるわけなのだから、当然といえば当然かもしれないが、これもいまのぼくにとっては大きな糧となっていることは間違いない。


 生活の方はしかし、相変わらずの状態だった。ワンルームの4人暮らしから脱出できるほど、新人のライターが稼げるわけはない。最初にもらったギャラは月に8万円くらいだったと記憶している。家賃は4人で均等割にしていたから、たいした金額は必要なかったが、食費やたばこ代、酒代などでほとんどが消えていった。こんなことを聞いたら、きっと、ライターに興味がある、あるいはライターになりたいと思っている人の大半は、「やーめた」と言って逃げ出してしまうのではないだろうか。だから、少なくともお金が欲しいという動機で、ライターを目ざしている人がいるのだとしたら、ぼくはこの仕事を決してすすめない。大手の出版社や広告代理店にでもお入りください。もっと、効率よく稼ぐことができると思うから。


 さて、P社に入った1988年は、暮れに近づくほどに、日本中がどこか重苦しい雰囲気になっていった。昭和天皇の病状が深刻なものになっていたからだ。いくつかのテレビCMは自粛され、番組放送中には、逐一“下血”の情報が流されて、政治的な主義主張とは関係なく、人々の気持ちを滅入らせた。そして1989年1月7日、ついに“崩御”のニュースが流れ、翌日から平成が始まった。確かその日は国中が喪に服すということで、ほとんどの会社や商店は休業になっていたと思うのだが、あとで話を聞くとぼくが知っている同業者の人たちは、ほぼ全員が出勤していたらしい。もちろんというのも変だが、ぼくもP社で通常どおり仕事をしていた。コンビニエンスストアくらいは開いていたから、カップラーメンでも買いに行こうかと思っていると、ワタナベさんが「みんな、ちゃんぽん食べる?」と、どこかうれしそうな顔をしてそう言った。「実はね、このあいだ長崎でちゃんぽんの取材をしたときに、おいしく作るコツみたいなものを聞いてきたんだよね」「食べます」とデザイナーの女の子たちは笑顔を浮かべそう答えた。「丸山くんも食べるでしょ?」とワタナベさんはぼくに念押ししたが、もちろん断る理由もない。ありがたくいただくことにした。ワタナベさんのちゃんぽんは、彼自身が結構な料理好きだということもあって、なかなかのものだった。しかし事務所の中で、つまりはマンションの一室ということになるのだが、社員一同で同じものを食べるというのは、なんだか不思議な感覚がした。


「実はぼく、東京に戻ることになってね」と、みんなが食べ終えたころになって、出し抜けにワタナベさんが言った。どうも彼はその話をするタイミングを見計らっていたようだ。「4月からだから、まだ少し時間があるけど」。ぼくはそれを聞いて少なからず動揺した。