丸山泰武のぼくが福岡でフリーライターをやっているわけ

赤ペンと太陽

ライター6

 翌日、再びぼくは、福岡における橋に関する原稿にとりかかった。そして、行ったり来たりしながらも、何とか文章らしきものができあがった。ワタナベさんのところへそれを持っていくと、彼はデスクについたまま言った。「うーん、なるほど。よくがんばったね。でもね…」と言いながら、原稿に何カ所が赤いボールペンで修正をしてくれた。具体的なことは覚えていないけれど、同じ言葉の繰り返しには注意すること。それから一文をできるだけ短く簡潔に書くこと。そんなアドバイスをしてくれた。

 たぶん、この時、原稿を真っ赤に染められ、わけのわからない修正を加えられていたら、ぼくはライターになんてならなかったと思う。これだけは経験上言えるのだが、あまりパッとしないライター、まあ、編集者もそうなのだが、そんな人たちに限って、たくさん「赤」を入れてくる。ひどいのになると、修正した回数だけなんのかんのとケチをつけてくる輩もいる。ぼくもいまでこそ、「はいそうですか」と笑って受け流せるようになったが、そういう人たちに運悪く出会ってしまう若いライターたちは実に気の毒だ。なぜ、そんな不毛なことを彼ら彼女らが繰り返すのかといえば、一度で原稿に修正を加えるだけの能力がないからだ。そして、そのうちに自分でもどう直していいのかわからなくなってしまう。最悪だ。そんな仕事ばかりをつづけていると、さすがに気持ちが荒んでくる。自分には能力がないのだろうかと悩んでしまう。

 その点、ぼくは運がよかった。ワタナベさんはいつも的確な指示をしてくれて、ぼくをなんとか“育てよう”としてくれているみたいだった。ぼくはぼくで、そんなワタナベさんの気持ちが伝わってきたので、何とか期待に応えようと思い、デザイナーの女の子たちに、「ワタナベさんってどんな文章が好きなんですか?」と質問をしてみた。彼女らは顔を見合わせて「うーん、雑誌の『太陽』はいつも読んでいるみたい。読書の趣味はよく知らないけど」と教えてくれた。会社の本棚を見ると、なるほど『太陽』という雑誌がずらりと並んでいた。ぼくは仕事の合間にそれを引っ張り出して、記事をチェックするようにした。

 『太陽』という雑誌は平凡社が2000年まで発行していた雑誌で、特集のテーマや写真、もちろん文章もある意味で突き抜けていた。それもそのはずで、編集者にせよ、フォトグラファーにせよ、そして文筆家にしても、こういうと安っぽくなってしまうが“一流”の人が担当していた。ところが、これもいまとなっては笑えるのだが、ぼくにはそんな予備知識がまったくなかった。おかげで妙に構えずに、この雑誌を楽しみながら読みこむことができた。名のある作家やエッセイスト、評論家、まあ、そういった豪華な人たちが誌面に寄稿していたことはあとになって知ったことだ。ぼくはそうした先入観なしで「なるほど、こういう表現があるのか」「この文章はなんかカッコいいなあ」という程度の軽いノリで、文章を書くための素地を自然な形で頭に刻んでいくことができた。